+我侭+ シャワーの音が室内に響いていた。 髪の先を滑る雫がぽたり、ぽたりとバスタブへと落ちていく。 それを視線で追いながら、室町は鬱陶しそうに顔にかかる髪をかきあげた。 只今、山吹中テニス部は、とある山裾の合宿所で、毎年恒例の合宿中である。 朝早くに学校を出発し、お昼頃には合宿所へと到着した。 そして荷物を降ろし、テニスをする準備をし、練習ということになったのだ。 一日目の練習は、普段の練習よりも少し軽めだ。 移動の疲れもあり、あまり無理をさせてはいけないという伴爺の考えでもある。 心地よい汗を流した後、南の、練習終了の声がかかる。 練習を終えた部員たちはそれぞれに、自分たちにあてがわれた部屋へと戻っていく。 もちろん先に帰るのは3年生からで、 2年生である室町は後輩の動きを軽く目の端で追いつつ、 早く部屋に帰ることができるようにと望んでいた。 練習が終われば、もちろん次は風呂である。 誰しも汗の滴る体でずっといたくはない。 もちろん風呂も3年生が優先で。 後輩たちは先輩たちが入り終わるのをじっと待つ。 部長で心優しい南などはそういう後輩に気遣って早く風呂から上がってくれようとするのだが。 中には気遣いがない人間というのもいるわけで。 まあ、それなりの時間、後輩たちは待たされることになるのだ。 さて、2年生の入浴の番となったとき、事件は起きた。 いや、事件というには極々小さな問題であったのだろうが。 室町にとっては大問題である。 風呂に入ろうと、室町は部屋を出た。 汗でべとつく体は不快なだけで、早くこの汗を流してしまいたかった。 廊下を歩いていた室町の前に、風呂から上がってきた3年生の面々がやってきた。 彼らはさっぱり爽快というような表情でこちらに歩いてくる。 もちろん3年というのだからその中にはあの人もいるわけで。 早く風呂に入りにいきたかったから、自分のことを見つけないでくれればいいと。 そう願っていたのだけれども、現実はそんなに甘くはなかった。 「あ!室町くん!!」 嬉しそうな声とともに、近づいてきた人物に思いっきり抱き締められた。 早く風呂に行きたいという思いと、練習後で汗臭い自分というものが気になって、 室町は千石の腕の中でムッと眉をしかめた。 そうして千石の胸を押し返す。 「廊下の真ん中で何するんですか・・」 ため息とともにそう告げる。 しかし千石はそんなことを全く気にせず、室町を抱き締めようと腕を伸ばす。 「そんなこと気にしてるとハゲちゃうよ、室町くん」 言いながら千石はきゅっと室町を抱き締める。 千石もそう背が高い方ではないのだが、千石よりも背が低く細い室町を抱き締めるには、 千石の身長でも充分なのである。 まるで人形でも抱き締めているような感じで、千石は室町を全身で抱き締める。 「・・・千石さん!本当にやめてください」 そう言うけれども、千石は室町を離そうとはしない。 このままでは風呂に入りそびれてしまう。 そう思い、室町は助けを求めようと辺りを見渡した。 くるり、と見渡すとそこには状況を見ながら苦笑いをしている南がいて。 室町は藁にでもすがる思いで南に声をかけた。 「南部長・・助けてください!」 縋るような視線で南を見ると、南は助けの手を差し伸べてくれようと室町に近づいてきた。 しかし。 突然南は何かを見て、怯えるような表情を貼り付けて一歩後ろに下がったのだ。 一体、何があったというのだろうか。 「健ちゃん。室町くんに触ったら容赦しないからね」 肩の辺りから発せられる声。 室町はその声だけで全てを理解した。 いつもと同じ明るい声は、だけれども底抜けに明るいのではなく。 どこか含みを持たせたような言葉には、無数の棘が含んでいる。 室町からは千石の表情は見えないのだけれども。 きっと千石は氷のような笑顔を浮かべているに違いないと確信した。 千石は南から室町を遠ざけようとするように、室町を抱き締めながら2、3歩後ろに下がった。 まるで敵を威嚇するかのような行動に、室町は深いため息をついた。 目の前にいる南も、室町を見て顔を引きつらせながら微笑した。 「千石さん・・。俺、風呂に入りたいんですけど・・」 室町を抱き締める千石の腕を軽く引っ張りながら、そう告げた。 早い内に自分の意志をこの人に告げておかないと、 いつまで経っても風呂には入れそうにない。 「えっ!?」 千石は室町の言葉に、抱き締めていた腕を緩め、弾かれたように室町の顔を覗き込んだ。 「室町くん、大浴場に入るの?」 千石のリアクションに驚いてしまったのは室町の方だった。 どうしてそんなことを聞かれなくてはならないのだろうか。 「入りますよ。汗かきましたし・・」 「駄目!!駄目だよそんなの!」 有無を言わさない。 そんな表情で千石が室町に詰め寄る。 「室町くんが無防備にお風呂になんか入ったら 他の子たちが飢えた獣みたいに室町くんを襲って・・!」 千石の言葉を聞きながら、室町は耳を塞ぎたくなった。 「千石さんの他にそんなことする物好きはいません」 きっぱりと言い捨て、緩められた腕を幸いだと思い、 そのまま千石を置いて風呂へ行こうとする。 けれどもその腕はしっかり千石に掴まれてしまい。 そして逃げられないようにもう片方の手も握られた。 「駄目って言ったら駄目。ね?室町くん」 にっこりと。 そう、とてもにこやかに。 けれども絶対に反論を許さないという笑顔を向けられて、 自分はもう従うしかないということを今までの経験から悟っていた。 室町は未練がましく大浴場の方向を見つめた後、大きなため息をついた。 「・・分かりました」 そんな様子を、南と東方は胸の前で合掌をしながら見届けていたのであった。 あの我侭な先輩が、『室町くんの裸を他の奴に見せるわけにはいかない!』と駄々を捏ねて。 そうして室町は、いつまでも自分の意見を曲げることのない千石の言葉に、 最後には頷かねばならなかったのだ。 室町だって大浴場に入りたかった。 きつい練習の後に、シャワーなどではなく、 ゆっくりと大きな風呂に浸かるというのは、実に爽快なことであっただろう。 別に他人に肌を見られることなどどおってことのないことだ。 それなのに、あの我侭な先輩といったら・・。 室町はシャワーを止め、僅かにため息をついた。 これから一人、大浴場に向かおうか。 そんな考えも頭の中によぎらない訳ではなかった。 けれど人よりもずっと多くの運というものを持ったあの人は。 きっと自分がどんなにこっそり大浴場へ向かったとしても、 きっと彼は自分のことを見つけてしまうのだろう。 変なところで勘がいいというか。 あの人から運がなくなったら何が残るのか。 考えてみたのだけれども恐ろしくてやめた。 カチャリ。 突然、ドアの開く音がした。 男同士で特に心配をすることなどもなく、鍵をかけてはいなかった。 カーテンで遮られていて、向こう側の様子はわからないが、 同じレギュラーで同室の喜多が間違って入ってきてしまったのだろうかと、 そう思った。 「喜多?」 室町は向こう側に向かって声をかける。 しかし何の返事も返ってはこない。 室町は不思議に思ったが、もうシャワーも浴び終わったので、出ていこうとした。 その時。 カーテンを開いた途端に、目の前には鮮やかなオレンジ色の髪。 「むーろまーちくん!」 風呂場に響き渡る声は、紛れもなくあの先輩のものだった。 サングラスをしていないためにクリアな視界に、千石清純が飛び込んでくる。 シャワーを浴びた後で体が濡れているにも関らず。 服を着たままの千石は室町を抱き締めたのだ。 「ちょっ・・・!千石さん!」 慌てて室町は千石を押し返そうとする。 けれども室町の力では到底かなうはずもなく。 千石はぎゅっと室町を抱き締め続ける。 段々と湿っていく服を感じながら、室町はどうしていいのか分からずただ立ちすくんだ。 自分は裸で。 ここから無理に動くこともできないのだ。 千石の腕の中から逃れられないということを理解して、 室町はとりあえず今の状況を理解しようと努めた。 「千石さん・・どうしてここにいるんですか?」 当然といえば当然の質問を室町はしてみせた。 3年の部屋は2年の部屋からは遠く離れていて、もちろんここではない。 どうしてここにいるんですか、と半ば諦めながら尋ねた。 薄々ながら理由を理解することができるから。 「俺さ、新渡米と同じ部屋だったから喜多に変わってもらっちゃった」 千石は嬉しそうにそう話すのだけれども、 新渡米と喜多に無理矢理部屋を替わってもらう千石の姿が容易に想像できてしまい。 室町は深い溜息をついた。 後で見つかったら絶対に南に怒られるのであろう。 別に怒られることに対して抵抗はないのだが、 あの気苦労の多い部長に更に心労をかけるのは少しばかり遠慮したい。 「千石さん、俺たち、部活で来てるんですよ」 諌めるように千石に言う。 けれどももちろん、千石がそんなことで素直に聞くはずもなく。 「分かってるよ〜そんなこと」 と、言いながらも室町を離すことはなかった。 風呂場に篭る熱。 回る換気扇の音。 そのどれもがひどく遠くにあるような気がした。 千石清純という人間の中に捕らわれた自分は、千石清純以外のものはまるで、 硝子の向こうに存在しているものであるかのような錯覚を覚える。 望んで腕の中に捕らわれているはずもないのに、 その中にいることに慣れてしまっている自分がいる。 いや。 もう捕らわれた時点で、その腕を望んでしまっているのかもしれないのだけれども。 「千石さん、腕・・離してください。俺風邪ひいちゃいますから」 僅かに名残惜しさを感じながら、けれどもそんなそぶりは全く見せないように言葉にした。 今だシャワーを浴びたままの姿でいる室町は、このままでいたら体が冷えてしまう。 それを千石も分かっているはずであるから、きっと腕を離してくれるはずである。 そう、思った。 けれども次の言葉で、それはかなわないのだということを知った。 「ゴメン」 僅かに弱さを含んだ声。 まだ温かさの残る室内に千石の言葉が反響して、そう聞こえるのかもしれないのだけれども。 千石は飽くことなく室町を抱き締めてやまない。 服に雫が零れ、濡れていくことも厭わずに。 「室町くんを離したくない」 何という、我侭で、難という自分勝手。 だけれどもそんな千石に、言い知れない愛を感じるのは何故なのだろう。 「本当に、室町くんを他の奴らに見せるのが嫌だったんだ」 甘く囁く声。 ただ束縛にすぎないその言葉は、柔らかい棘のように、室町の脳に触れる。 室町は目を閉じて、千石から流れ込む熱の波に耐えた。 千石は後ろも振り向かず、笑顔で後ろにあったバスタオルを掴んだ。 この人は何処に目を持っているのだろうかと思ったのだが、 考える暇もなく真っ白のバスタオルに包まれた。 軽く顔の周りの水分をタオルで拭われて、真っ直ぐに千石に見つめられる。 「行こうか。もうこの部屋には誰も来ないし」 笑顔でそういう千石は。 きっともうこの部屋に誰も来るなと言い渡したに違いないと。 思ったら少し、笑みが零れた。 千石が室町に手を伸ばす。 その手を取るのを躊躇っていたら、千石は満面の笑みを浮かべて、室町を抱き締めた。 気がついたら、体は宙に浮いていて。 千石に抱きかかえられたのだと悟ったのは、その数瞬後。 室町を抱えたまま、千石は器用に扉を開ける。 真っ暗なままの部屋、室町の方のベッドに横たえられる。 動体視力のよいこの人にとっては、暗闇など大して問題にならないことなのだろう。 千石の熱に抱き締められる。 優しい手が室町の髪を攫い、そうして額に降って来る熱。 理性を手放す寸前に思い出したのは、南部長の泣きそうな顔だなんていうことは、 千石には教えない方がいいのだろうと室町は思った。 |