季節は。 もう。 始まっていた。 +LOVE EMOTION 〜zero・11〜 空は高く。 青い空に架かる雲は、 随分と重い質量を持ちながらその姿を主張していた。 亜久津は頬を伝う汗を、胴着の袖で拭った。 道場に冷房が完備されているなどということはなく。 自然のままの熱さの道場には、ひどく密度の高い空気が篭っていた。 動いてもいないのに流れる汗を鬱陶しく思いながら、 亜久津は袖口を肩まで捲り上げた。 これで少しは涼しくなるだろうと望みをかけながら。 そろそろ練習が始まるため、道場に子供たちが集まってきていた。 子供から大人まで様々な年代の人たちが練習のために集う。 そんな人たちを眺めながら、亜久津はとある人物の姿を認めた。 いつもは亜久津よりも早く来ているはずであるのに、 今日はどうしたことか、開始ぎりぎりである。 河村が理由なく遅刻をすることなどありえないから、 きっと何かあったのだろうと予想をつけた。 亜久津が河村の方を向いていると、 その視線に気づいた河村がこちらへ近づいてきた。 別に同じ場所にいると約束しているわけでもない。 けれども気がつけばいつも傍にいる、そんな仲であった。 「おはよう、亜久津」 少し困ったように笑うのは河村の癖だ。 「ああ」 軽く手をあげて、河村に返事を返す。 自分たちの周りには同年代の他の子供もいたが、 亜久津に河村以外が近づいてくることはなかった。 別にそれを不快に思ったことはないし、 それを気にしたこともなかった。 近づいてくるのは河村だけ。 それだけでよかった。 いつもの笑みを浮かべる河村に、亜久津は向き合った。 河村の額には、たくさんの汗の雫が浮かんでいた。 遅刻をするからと、走ってきたのだろうか。 容易に想像がついて、亜久津は僅かに口の端に笑みを浮かべた。 そうして、何があったのかを問うために亜久津は口を開いた。 「お前、今日は遅いじゃねぇか。何かあったのか?」 それは。 ほんの少しの興味。 本当に知りたいと思ったわけではなく、 通常の会話の中の、通常の話題。 それが自分の生活を変えてしまうものになるとは知らずに。 「ああ」 河村は、ひどく楽しそうに笑う。 「今日、さ。幼馴染が練習を見に来たいって言って・・」 河村の言葉に、亜久津は目を瞠った。 『幼馴染』という言葉は、亜久津の耳の裏に不協和音を紡ぎだす。 ただ一つの言葉であるはずなのに、やけに不快な音を、その言葉は奏でる。 「連れてきたんだ。道場に。」 河村はそっと道場の控えを指差した。 そこには、確かに。 見慣れぬ姿があった。 空手をやっている子供たちとは違い、細い腕、薄い体。 白い腕に、低い身長。 そして、驚くほどに端正な顔立ちをしていた。 河村が、その幼馴染だという彼の方を向く。 それに気がついた幼馴染は、小さく手を振った。 そうか。 そうだった。 河村には河村の生活があって。 そういう『幼馴染』などという存在がいてもなんらおかしくはないのだ。 けれども。 河村の口からはっきりとその存在を知らされるのは初めてで。 今までその存在があるのかもしれないと、 疑いもしなかった自分に愕然とした。 そうか。 『幼馴染』なんて、そんな大切な存在があったのだな、と。 よく分からない空虚が心の大半を占め。 答えの出ない問いが頭の中を回っていた。 『幼馴染』 その言葉で、亜久津はふと考えた。 今までは、隣にいることがあまりに自然すぎて、考えることもしなかった。 亜久津もそれでいいと思っていたし、何の疑問も持たなかった。 しかし。 こうしてちゃんとした繋がりを、言葉で表すことができる関係を目の当たりにすると、 一体河村と自分はどういう関係であるのか、ひどく気になった。 友達。 親友。 同じ空手道場の人間。 ・・どれもこれも当てはまらないような気がした。 会うのは道場と、時々外でだけ。 友達というには余りにお互いのことを知らなすぎる。 では、何か。 ただ、自然に傍にいた。 それが心地よく、何の違和感も抱かなかった。 河村も何も言わなかったし、亜久津も何も言わなかった。 けれども、友達でも親友でもない。 少なくとも亜久津には友人であると思えなかった。 この感情は何であるのだろうか。 ただ、目の前には答えのない暗闇だけが広がっていた。 |