+LOVE EMOTION〜zero・12〜 全てが、音を立てて崩れていく気配。 目の前には何もなく、積み重ねられたものも、培われたものも、 何もなかったはずであるのに。 目の前を染める白と、影を作る黒が混じり、 じわりじわりと、重く垂れ込めた空のような灰色が視界を染めていく。 何も見えないほど黒いわけでもなく。 けれど、全てが見えるほど白いわけでもなかった。 見えそうで見えない視界は苛立ちを募らせ、 けれどもどうすることもできないこの状況に、 ただ地を踏みしめていることしかできなかった。 見えない視覚とは逆に、よく聞こえるようになった聴覚は、 夏を彩る様々な音を聞き分ける。 道場を駆け回る子供たちの声。 木々に止まり、短い命を謳歌する蝉たちの鳴き声。 そして。 幼馴染と会話をする、河村の、声。 亜久津は耳を塞ぎたくなった。 どうしてかは分からない。 見えなくなった視界を補うために、聴覚は絶対不可欠であるのに。 耳でさえも塞いてしまいたくなるほど、河村の声を聞きたくはなかった。 今まで、こんな風に思ったことはなかった。 いつも自然に自分の傍にいたのだ。 自分の周りの空気を脅かすことのない河村に、嫌悪を覚えることなどなかった。 けれど、今は姿を見たくはなかった。 声でさえも、聞きたくないと思った。 練習が終わり、亜久津は着替えを終えた。 いつもであれば、河村と共に帰るのであるが、 しかし今日は河村を待っているのをやめた。 河村の姿を見るのも嫌であったし、またあの幼馴染を紹介されるのも嫌であった。 小さな子供のような感情であるのかもしれない。 大切なおもちゃを取り上げられて、泣きじゃくる子供のような。 そんな感情。 亜久津は鞄を肩にかけ、道場を出ようとする。 しかし亜久津は、道場を出る寸前にちらりと河村の方を向いた。 そして、見なければよかったと後悔をした。 楽しそうに幼馴染と会話をする河村と、そして同じように話す幼馴染。 亜久津の入ることができない雰囲気がその中にあり、 それを実感する度に、心がひどく疼いた。 そしてそれは時に痛みを発し。 やりきれない感情に、亜久津はすぐにその光景から目を離した。 道場の門を出る道を、亜久津は歩いた。 そういえば、以前もこんな風に一人で道を歩いたことがあったな、と。 数年前の思い出に亜久津は頭を巡らせた。 しかしその時も結局、河村と共に帰ったなと、 ほんの数年前のことであるのに、もう既に亜久津は懐かしささえ感じた。 敷石を2、3歩歩く。 すると突然、後ろから大きな声がかけられた。 「亜久津!」 河村の、声。 けれど、素直にそれに振り向くことが出来ず、亜久津は聞こえないふりをした。 「亜久津!!」 更に大きな声が亜久津にかけられる。 それに答えないのは流石に不自然であると感じ、亜久津は思わず足を止めた。 そのまま帰ってしまえばよかったと、後悔をし始めたのはその3秒後。 立ち止まったはいいものの、亜久津は振り向くことができなかった。 その隣にあの幼馴染がいるのかと思うと、視界にすらその姿を映したくはなかった。 「先に帰るのかい?・・一緒に帰ろう」 河村の穏やかな声に、亜久津はゆっくりと振り向いた。 そこには河村の姿しかなく、いつもと変わらない河村の表情に、 亜久津は僅かに肩を下ろした。 しかし、そんな平穏も長くは続かなかった。 「タカさん」 道場の中から僅かに顔を出した河村の幼馴染が、河村に声をかける。 『タカさん』 聞きなれない音に、亜久津は目を瞠った。 彼はそのように呼ばれているのだと、初めて知った。 そうして、改めて自分の知らない河村の世界があるのだと思い知らされる。 「帰るの?」 「うん、不二、帰ろう」 二人の会話に、亜久津は眩暈がした。 見たくないのに、見せ付けるようなことをするなと大声で叫んでやってもよかった。 足が震え、この地に立っていられないと思うほど。 心は慟哭を放っていた。 亜久津は何も言わず、ただ二人に背を向けた。 そうして、可能な限りの力で、外へと走った。 「亜久津!?」 背後で、河村の驚いたような声が聞こえる。 もう、見たくはなかった。 彼の持っている他の世界など。 もう、見たくはなかった。 |