+LOVE EMOTION 〜zero・16〜+ 人が望んでも、望まなくとも、時とは進んでいくものなのである。 止まれと願えども、時は歩みを止めることはない。 ときには早く、ときにはゆっくりと、その歩を進めていくのだ。 それを確かに感じるのは、人が人生の岐路というものに立ったとき。 目の前に幾つもの道が現れ、そのどれかを選ばなくてはならなくなったとき、 人は確かにその時間の流れを感じるのだ。 そして思うのだ。 このまま、時が止まればいいと。 時が、あの幸せだったときに戻ればいいと。 しかしどんなに強く願おうとも、その望みが叶うことはない。 そう、どんなに強く願おうとも。 人は前に向かって歩かねばならない。 そのための機能を、与えられて生きている。 人が前に進まなくなれば、この世界は崩壊へと向かっていく。 太古の昔に、遺伝子の中に組み込まれた本能。 それに追い立てられるかのように、人は前へと進まなければならないのだ。 道と道の分かれ目に立ち、ふと今まで歩いてきた道を振り返る。 けれど、戻ることはできず。 今まで自分の歩いてきた足跡を見、 そして振り切るように前に進んでいかなければならないのだ。 亜久津と河村も、確かに岐路というものの前に立っていた。 どの道を選んでいけばよいのか、どの方向へ進んでいけばよいのか。 選ばなくてはならなかったのだ。 それはゆっくりと、けれども確かに。 今までの日常を壊していった。 日常という言葉は、どれだけの安穏を自分たちに与えてくれていたのであろうか。 常に変わらない日々は、確かに自分たちの支えとなっていた。 けれども、それが根底から崩れていく。 じわりじわりと、それは周りから蝕んでいき。 そして自らが立っていることが不可能なほど、その土台を侵食していく。 もう、すでに、元に戻れないところにまでやって来ていた。 あの頃には。 ただ隣にいて、笑っていただけの日常には。 戻ることなどできないのだ。 年が経つにつれ、亜久津が道場に来る回数は少なくなっていった。 去年の夏、あの出来事があって以来、 亜久津が河村と接触を図るということが少なくなった。 その上、河村は中学受験のために、塾へと通いだし、 道場へ来ることが少なくなっていた。 河村が道場へ来ることが少なくなれば、自然と亜久津の足も道場から遠のく。 同年代の子供の中で、亜久津とまともに相手ができるのは河村だけであるからだ。 それに。 道場に来ても、河村はいない。 別に練習の相手になってくれなくてもかまわない。 ただそこにいない、存在しないということが、亜久津の中に重く圧し掛かってくる。 夏休みも始まったばかりの日、亜久津は久し振りに道場へと足を向けた。 ただ何もすることがなかったというのが理由なのだが、 たまには空手をするのも悪くはないと思ったのだ。 道場の門をくぐり、更衣室のドアを開く。 すると、そこには珍しい顔があった。 「亜久津、おはよう」 咄嗟に言葉は出ず、僅かに見開いた目で河村を見つめた。 「亜久津?」 そんな亜久津を不思議に思ったのか、河村が心配そうに問い掛けてくる。 「・・・珍しいな」 お前が来るなんて。 そう、告げるはずだった言葉は、途中で音となることを拒んだ。 喉につかえた言葉が、空気を震わせることはなかった。 「そうかな?」 しかし、そんな亜久津の言葉を読み取ってか、 河村は頭を掻きながら照れたように答えた。 「そう言われればそうかもしれないな・・」 河村の言葉に返事を返そうとして。 けれども開きかけた口は音を紡ぐことはなく、静かに閉じられた。 かける言葉はいくらでもあるはずなのに、言葉にする前にその意志を失う。 閉じた唇は僅かに震え、亜久津は誤魔化すようにそれを微かに噛んだ。 唇の柔らかい皮膚に、小さな痛みが走る。 亜久津は河村を見ていた視線を外し、 そのまま。 何も言わずに河村の前から去った。 真っ直ぐに河村のロッカーへと歩く。 きっと、河村には亜久津に何があったかなどわからないに違いない。 傍にいるだけでお互いが何を考えているかうっすらと理解できた子供の頃とは違い、 今はもう、相手がどういう人間であるのかさえ分からなくなっているのだろう。 けれどもこうして。 相手を理解することはできなくなっているにも関らず、 傍にいるのは何故なのだろうと思わずにはいられない。 亜久津は自分のロッカーの前へと向かった。 そしてロッカーに手を伸ばしたとき、突然亜久津の肩に手が伸ばされた。 「亜久津」 振り向くとそこには真剣な顔をした河村が立っていた。 そんな彼の姿を見て、亜久津は僅かに目を瞠った。 今までずっと自らの感情を強く外に出すということをしなかった河村が、 こんな風に亜久津に接してくるということは滅多になかった。 亜久津はただ河村を見つめた。 河村は、変わってしまったのだろうか。 それとも傍にいる時間が減ってしまったために、そんな風に感じるのだろうか。 分からなかった。 亜久津がただじっと河村を見つめていると、河村は困ったように笑った。 「ごめん・・亜久津。話があるんだ」 話が、あるんだ。 そう紡がれる河村の言葉を、 亜久津はどこか離れたところから聞いているような気がした。 完全に、進むべき道が分かれてしまう予感。 それが現実となって目の前に突きつけられたとき。 ただ、それを自然に受け入れることしかできない自分に気がついた。 時というものに抗う手段はなく。 そして他の人間が進んでいく道を壊してしまうほどの力も、亜久津には無かった。 河村の言葉に、亜久津はただ静かに頷いた。 練習が終わり。 流れる汗を拭いながら、亜久津は河村とともに裏庭へと向かった。 昔、この場所で、河村は猫を助けるために上級生と戦っていたことを思い出し、 亜久津は懐かしげに辺りを見回した。 いつも見ている風景であるはずなのに、こうしてしっかりと見渡すと、 やはりいくつも変わってしまったところが目につく。 亜久津が適当に木の下辺りに腰を下ろすと、河村もその隣に腰を下ろした。 天気は、晴れ。 風は穏やかに吹き、太陽の光は静かに、木々の緑を照らしていた。 人間の進むべき道が変わるというとき、時とはこんなに穏やかなのだろうかと。 亜久津は僅かに空を見上げた。 「亜久津」 呼びかけられて、河村の方を眺めた。 返事をすることが辛いわけではない。 ただ、言葉が喉の奥から外へ出て行こうとはしないのだ。 適当に頷いてみせると、河村はそれを返事と受け取ったのだろう。 話を続けた。 「俺さ、中学どこに行くか決めたんだ」 予想をしていた河村の言葉に、亜久津はまた一つ頷いた。 時はゆっくりと姿を変え。 人の歩むべき道も時とともに少しずつ方向を変えていた。 「青春学園に行こうと思うんだ」 亜久津はその言葉を、まるで自分の周りを流れていくもののように感じていた。 体の中にその言葉を受け入れることができなく。 まるで世界は亜久津を除いて回っているのではないかと。 そんな錯覚すら覚える。 長いことテニスに関ってきた亜久津が、青春学園の名を知らない訳ではなかった。 青春学園といえば、この辺りでもテニス部が強いことで有名だ。 河村は。 亜久津が去年、テニスをしている河村の姿を見たことを知らないのだろうか。 彼はあの後、一度も亜久津が自分の学校へ来たかということを問うことはなかった。 あの時確かに、河村の幼馴染に姿を見られたと思ったのだが、 あの幼馴染は河村に何の話もしなかったのだろうか。 それとも、亜久津の姿など見えてはいなかったのだろうか。 亜久津はあの後、テニスを辞めた。 特に理由があった訳ではない。 テニスに熱がなくなったのも事実だ。 ただ。河村が自分以外の誰かと楽しくテニスをしている姿を見て。 テニスと自分が随分と遠いものになってしまったことを感じていた。 河村は青春学園へ行くという。 ならば河村はあの後もテニスを続けているということなのだろう。 河村は、亜久津に自分がテニスをしているということを全く話さなかった。 何故なのだろうかと考えてみたこともあった。 けれども、どうしてなのかは考えてみても結局、分からなかった。 空手の練習のみでしか合わない亜久津に、話すことは無駄だとでも思ったのだろうか。 河村はテニスの道を歩いていく。 けれどもテニスをやめた自分は、あの時から時が止まったまま。 新たな道など何も見えず。 自分の横に存在したはずの河村の道が、 いつしか自分の傍から逸れていってしまっているように思えた。 「・・そうか」 口から出た言葉はただそれだけ。 それだけだった。 「亜久津は・・?何処へ行くんだい?」 何処へ行くかなど、決めているはずがない。 亜久津は今自分が立っている場所から、動く術を知らないのだから。 「・・さぁな」 近いところにでも行くんじゃねーの? そう、言いながら亜久津は立ち上がった。 もうこれ以上、自分の傍を離れる道を歩いていく河村の傍にいることなどできなかった。 逃げたかったのかもしれない。 目の前を流れる時という名の呪縛から。 「じゃあな」 それが、河村と道場で会った最後の時だった。 最後に見た河村の、どこか辛そうがいつまでも忘れられなかった。 否。 忘れたく、なかったのかもしれない。 時は確実に、歩みを進めていた。 こんな、ものなのだろうか。 時が変わる、瞬間とは。 |