+LOVE EMOTION〜zero・17〜+





手には、卒業証書。

見上げた空は、快晴とは言いがたい、

けれども曇りともいえないような曖昧な空であった。

青い空に霞みのように雲がかかり、

確かに鮮やかな色を有していたであろう空は、その鮮明さを失っていた。

薄い雲のかかった空は、まるで、

桜の花びらを透かして見た空に似ていて。

まだようやく蕾ををつけ始めた桜の木々の代わりに、

自分を、祝福してくれているかのようだった。


着慣れない、スーツなどというものを着て。

亜久津は、いつもの川沿いを一人で歩いていた。

何も知らなかったのだけれども、優紀が何時の間にかスーツを用意してくれていた。

優紀の方も、亜久津には告げようとはせず。

どうやら自分を、驚かしたかったらしい。

何も知らぬままに目の前に差し出されたスーツに驚く暇もなく、

有無を言わさず、優紀にスーツを着させられた。

濃い灰色のそれは、優紀が少し自分の寸法を大きくみていたようで。

僅かに袖が余っているのを見て、優紀と顔を見合わせて笑ってしまった。


今日は亜久津の通う小学校で卒業式があった。

他の誰でもない、亜久津自身の、卒業式。

しかし優紀は仕事があるからと、卒業式には出席できなかった。

特にそれに不満がある訳ではない。

こうして、仕事で来られない代わりに、

自分の気づかぬうちにスーツを用意してくれていたのだし。

自分が文句を言うべき立場でないことはよく理解しているつもりだ。


手の中には卒業証書だけ。

他の雑多なものは全て、学校に捨ててきた。

どうせ残っていても、いずれはゴミとなるものなのだから。


卒業式を終え。

あと1ヶ月も経たないうちに新しい生活がやってくる。

見慣れない人達、知らない環境、未だ見てもいない、新しい制服。

全てが変わり、そしていつしか。

その環境が『今』となり、こうして生きている現在が『過去』となる。


何かに捕らわれるということは嫌であると、強く思う。

他のものに捕らわれ、自分の好きなように身動きが取れないなど、

吐き気がするほどおぞましい。

けれども。

こうして、動く意志もないはずであるのに、

めまぐるしく変わっていく情景を見つめるのも、

ひどく、苦しかった。

水槽の内側から、硝子越しに、忙しなく動く人間を見ているかのようで。

自分はたた、動かず。

たゆとう水とともに。

その場所にいられればそれでよかったのに。


時というものは無常で、

望まなくてもその歩みを進める。


何かに捕らわれているのではない。

強制的に、何者かに行為を強いられているのではない。

けれどもこうして、いつもの帰り道を歩いているのは、

過去に捕らわれているのではなく、

自ら望んで、この時、『今』という現在に捕らわれていたいからなのだ。

そう。

このまま。

捕らわれていたかったのだ。


川沿いをゆったりと歩く。

このあと、家に帰っても何もすることはない。

通常の家庭であれば、子供とともに帰った親は、

卒業のお祝いに豪勢な食事を用意したりするのであろう。

けれども亜久津の家には、誰もいない。

今帰ったとしても、誰もいないのだ。


霞みのかかった空の下を歩いていると、不意に昔のことを思いだす。

高学年になってからは、あいつとこの道を歩いたことなど数えるほどしかないはずなのに。

思い出すのはいつも、あいつの顔。

そういえば。

共に帰った日々の中に、こんな天気の日もあったなと。

遠い夏の日、じわりじわりと熱せられる太陽の下、

まだ無邪気に遊んでいた頃の、二人の姿に思いを馳せる。


そうこうしているうちに、何時の間にか川沿いの公園の前へやってきていた。

最近ではこの公園に寄るということもなくなっていた。

亜久津は、懐かしさに駆られて、公園内へと入った。

真ん中にぽつんと一つ置かれた滑り台は。

いつの間にか、塗り替えが行われたようで、その色を変えていた。

記憶の中の、色あせた滑り台はもうそこにはなく。

真新しい青が塗られた、少し毒々しさを有した滑り台が、そこにあった。

亜久津は、滑り台へと近づいていく。

一歩進むごとに、乾いた砂利の音が耳に響く。


その時だった。

誰もいない公園の中。

霞みがかった空の下。

その声は亜久津のもとへと届いた。


「亜久津!」


呼びかけられて、思わず振り向く。

それは、自分の知っている声よりも、少し低い声だったけれども。

自分の名を呼ぶときの調子だとか、声の上がり方だとか。

どれもこれも、記憶の中のアイツのものと類似していたから。

亜久津は反射的に、後ろを振り返った。


「河村・・」


その姿を見た途端、亜久津は思わず河村の名を呼んでいた。

久し振りに視界に捉えた河村は、亜久津と同じくスーツを着ていて。

彼もきっと卒業式だったのだろうと容易に察しがついた。

それもそうだ。

同じ区内に住んでいて、同じく公立の学校に通っているのだ。

卒業式の日が違う訳がない。


亜久津が呆然とその姿を見ていると、ゆっくりと河村はこちらへ近づいてきた。


「亜久津も・・ここに来てたんだ・・」


傍に来て、懐かしげな視線を亜久津に向ける。

懐かしい、と思ってしまうほど、自分たちはそんなに長いこと離れていたのだろうか。

亜久津は、目の前にいる河村を見つめる。

記憶の中にいる河村と、目の前に立つ河村の姿はすっかり変わってしまっていて。

同じ空間に立っているはずであるのに、

『成長』という名の壁が、自分たちを阻んでいるようにも思えた。


髪は、少し短くなっただろうか。

声は、少し低くなって。

同じくらいだった身長は、今では亜久津が僅かに見上げるほどに。

体つきは、前と比べ物にならないほどたくましく。


けれども、誰の心でも幸せにすることができそうなその笑顔だけは、

変わってはいなかった。


「ああ・・卒業式が終わってここまで来たんだ」


「そうか、亜久津も卒業式だったんだよな」


河村が、変わらぬ笑顔で笑う。

けれども河村の瞳に映る自分はやはり。

あの頃の自分とは変わってしまっていた。

時というものに押し流されて、動いてしまうのは嫌であるのに、

自らの意志とは関係なく、こうして何時の間にか、『今』は現在でなくなる。


「卒業、おめでとう、亜久津」


河村は嬉しそうに笑う。


「ばーか、お前も卒業したんだろ?」


真っ直ぐな笑顔を向けられて、亜久津も同じく笑みを零した。

こうして笑うのは、考えるまでもなく久し振りだ。

河村とともにいたときは、普通に笑っていたのに。

今では、全く笑えなくなっている。


日常生活で普通にできていたことが。

今では全くできなくなって。

けれどもその日常を狂おしいほどに求めていて。

だから前へ進むことができないというのは、

もしかしたら。

『過去』というものに縛られているのではないかと。

ふと思った。

目の前で笑う河村はいつものまま。

けれども亜久津は。

過去と同じ笑顔のまま。

河村が『今』で笑っているのだとしたら、亜久津は『過去』で笑っているのだろうか。

そう、感じて。

今笑っていることが、酷く不自然な気がした。


ただ、どうすることもできなく。

目の前で笑う、きちんと未来という道へ向かって進んでいる河村に、

助けを求めるように視線を向けた。

自分から助けを請うなど、恐怖を覚えるほど嫌悪すべきものであるのに。

亜久津が縛られているのが、過去の河村だとしたら、

自分に、未来への道を切り開いてくれるきっかけを与えてくれるのは、

また河村なのではないかと。

そう思ったのだ。

真っ直ぐに河村を見詰めると、河村はどこか照れたように頭を掻いた。

久し振りに見る、河村の癖。


「なんだか・・・さ」


僅かに亜久津から視線を逸らし、河村は空を見上げた。


「これから・・益々会えなくなるんだろうな」


何を、言うのかと。

河村の言葉に、亜久津はただ目を瞠った。

彼は。

自分と違う道を歩き始めた彼は。

まだ自分のことを気にかけてくれているとでもいうのだろうか。


「俺のこと、忘れないでよ?」


照れたように、河村が言葉を紡ぐ。

言われなくとも。

言われなくてもお前のことなんて忘れてやらない。

絶対に。


「バーカ」


声が震えていたかもしれない。

けれども、そんなことを考える前に。

胸がいっぱいで。

何か温かいもので埋め尽くされたようで。

自分がどんな声を出していたかなんて覚えていなかった。


「それはこっちの台詞だよ」


どうか、どうか。

忘れないでいてほしい。

そう願っていたのは自分の方なのだ。


「俺は忘れないよ、亜久津のこと」


そう、自信満々に言う河村は。

考えてみれば、とてもとても義理と人情には厚い人間で。

あんなにも自分のことを気にかけてくれていたのに、

急に亜久津のことを忘れてしまうなどということはありえないのだ。


忘れていた、けれども、

大切なこと。


「そうだ。約束しよう。今年の7月7日、七夕の日。

 また今日みたいに会おう」


七夕。

この場所で

3年前の出来事。

河村は覚えていてくれたのだろうか。


亜久津は真っ直ぐに河村を見詰めた。

河村は、冗談でこの約束をしているのではないと。

思い出した二つ目の、大切なこと。


河村の口から紡ぎだされる、未来の約束。

それは亜久津の心の中深くに染み渡った。


「忘れるかもしれねーぞ」


忘れる訳はない。

けれども、河村の確かな言葉を聞きたかった。





「いいよ、それでも俺。待ってるから」


あまりにも。

河村が、自然にそう言うので。

亜久津は思わず笑ってしまった。


「ばーか」


口元に笑みを浮かべながら、けれど。

心の中には、泣きたいほどの感情が渦巻いていた。

それは今にも体の外に出てきそうで。

ざわざわと、震える体を抑えるので精一杯だった。

けれども、そんな自分を。

おかしいとは全く思っていない自分が、そこにはいた。







それから、亜久津と河村は、随分と長いことその公園で話をしていた。

随分と長いこと話をしていた時間以上に、

会っていない時間の方がずっとずっと長かった。

けれども、それほど会話のない二人の話が長く続く訳でもなく。

ぽつりぽつりと時々出る話題を話しては、二人でただその場に佇んでいた。

どちらも。

離れるのは名残惜しいと。

そんな空間が存在していると考えるのは自惚れなのだろうか。


ふと、河村が辺りを見回す仕草をする。

もう既に日は暮れはじめていて。

家に帰っても誰もいない亜久津の家とは違い、

きっと河村の家では、あの気のいい河村の父が、

豪勢な手料理を用意して待っているに違いない。


亜久津は振り切れない未練を、なんでもないかのように振り払って、

河村にこう告げた。


「俺、もう帰るわ」


僅かに驚いたような顔をした河村は、けれどもそんな態度は言葉には全く表さずに。

静かに亜久津の言葉に頷いた。


「そうだね・・。時間も遅くなってきたし。帰ろうか?」


そう言うと、河村は亜久津の前に右手を差し出した。

意味がわからなくて、視線で河村に意味を問う。

すると河村はやはり照れたように笑って。


「握手」


とだけ、言った。

それだけで意味を理解した亜久津は、自分も同じく右手を差し出した。

触れる、熱。

それもまた、あの頃と変わらず続いている、河村の一部。


「じゃあな」


「ああ・・また」



『また今度』



そんな約束が、今の亜久津には無性に嬉しかった。


手を、離す。

そうして、これから。

違う道へと歩き出していかなければならない。






そう思った瞬間。



手を握りなおされて。



思わぬ強さで。



手を引かれた。



体は自然と、河村の方へ傾ぎ。



何か温かいものが、亜久津の頬に触れた。





「じゃあ、また・・」




あとはもう、何も考えられなかった。



ただ、後に残ったのは。

掴まれた腕に残る、河村の熱と。

触れられた、頬の熱。







河村が置いていったヒント。

答えを見つけ出さなくてはならないのは、自分自身。