人を、信じるということ。 人を、愛するということ。 +LOVE EMOTION〜zero・23〜 生きていくために必要な、体を作る要素。 そんなものを学びながら、今日も亜久津は窓の外を見つめる。 今日もやむことなく雨は降り続き、 抉られた土の流れ行く痛々しさに、亜久津はただ眉をしかめる。 人間を作る、要素。 たんぱく質であるとか。 炭水化物であるとか。 確かに生きていくためには必要な物質なのかもしれない。 けれども。 そんなに確固とした目に見えるものではなく。 人が生きていくためには、もっと、 抽象的で曖昧な、けれども大切な存在があるのではないだろうかと。 そう思わざるを得ないのだ。 窓の外の雨脚は更に強くなるばかり。 こんなに、涙のような雨を降らせたのならば、そろそろ。 枯れてもいい頃ではないかと思うけれども。 尽きることなく流れるそれは、 天の悲しみの深さを表しているに違いないのだ。 何もわざわざこんな雨の強い時期に。 たった一年に一度だけ出会うことができるという日を決めなくてもよいだろうに。 雲の上とはいえ、天にかかる天の川も、 この雨の量では増水してしまっているのではないだろうかと思う。 一年に一度だけ会うことを許された恋人たちを、 試しているのか、いないのか。 長い間相手のことを想い、信じて川を渡るということだけで、 彼らの想いの深さなど、容易に量れるはずであるのに。 深く傷ついた神様たちは、そんな些細な行為だけでは、 彼らの愛を、真実を。 信じることすらできないのだろうかと。 同情にも似た感情を抱かずにはいられない。 亜久津は窓を流れる、神様たちの涙を見ながら、 一つ、溜息をつく。 夢を、見た。 ひどく幼い頃の夢で。 けれどもそれは、亜久津が体験した過去では決してなく。 小さい頃の自分がその夢の中に存在しているのだけれども。 その彼が起こす行動はみな、目新しいものだった。 今日の大荒れの天気とは違い、 カラリと晴れた夏の空は、ひどく眩しい水色に輝いていた。 歩いているのは、何処か知らない場所。 周りに目立った建物はなく、穏やかな風が吹き、 緑の芝生が足元一面に生い茂っている。 木々は幸せそうに揺れ、鳥たちはそんな天気を喜ぶかのように、 嬉しそうにさえずっていた。 亜久津は真っ白い半そでのシャツを纏い、 短パンに、スニーカーといういでたちで。 ただ、何もない空の下、柔らかな風に包まれながら、 美しい緑の草の上を真っ直ぐ前に向って歩いていた。 歩調はいつもよりもゆるやかに。 その自然を楽しむかのように歩く。 時々止まってみせては空を仰ぎ、 もう涙を零してはいない、傷の癒えた神様たちの姿を確認するように、 その青さを視界に入れた。 それからしばらく歩いていくと、目の前に細い小川が見えた。 亜久津の歩いて行こうとする先を横切るそれは、 まるで行く手を阻んでいるかのようにも見える。 その川に沿って下っていくという道もあったはずであるのに。 どうしてだろう、亜久津はまるで惹かれるかのように、 川の向こうに渡るということしか考えてはいなかった。 川の水はキラキラ光り、流れる水は清らかで、川の底を映し出す。 亜久津は川へと意識を向けていたのだが。 不意に、覚えのある、無視などできない、気配が。 越えられるか越えられないかというギリギリの、小川の向こう、 ゆっくりと近づいてきたのに気がついて、亜久津は顔を上げる。 そこには想像と寸分違わず河村が立っていて。 彼は亜久津を見て微笑むと、その右手をゆっくりと亜久津へと差し出した。 安心感のある、微塵も心配などないというような、笑顔で。 『亜久津』 夢の中であるというのに、本当に彼の声さえ聞こえるような気がする。 亜久津は、その右手を見て、もう一度河村の表情を伺う。 その表情はやはり穏やかで、疑う余地など全くなく。 一人で越えられないことなどなかったのだけれども。 夢の中の自分は、迷わず。 差し出されたその手を取っていた。 ふわり、と宙を浮く感覚。 手は、亜久津を優しく導いて。 気がついたときには、対岸の地に足がついていた。 絶対なまでの、安心感と、信頼。 ただでさえ疑心暗鬼に陥りがちな夢の中で。 亜久津を支えていたのは、そんな揺るぎない感情だったのだと、 今更ながらに思う。 信じる、ということ。 愛するということ。 曖昧で抽象的な。 けれども大切な、人を作る最重要素。 窓に叩きつける雨の音で、亜久津は意識を教室へと戻した。 授業はとっくに終わっていて、 気がつけばそろそろ次の授業の教師がやってこようかというような時間。 ふとクルリと教室内を一望し、 目に飛び込んできた文字に僅かに意識を奪われる。 七月六日。 気にはするまいと思えば思うほど、 気になるのは人の本性であるはずであるのに。 無意識のうちに、自分が絶対の信頼を置いてしまっている彼が、 もし明日いなかったならばと。 押しつぶされそうな恐怖に必死に耐える。 まるで、愛を信じない子供が本当は愛を欲しているかのように。 表面的な感情で否定している事柄を、心の中で信じ。 まるでただ祈ることしかできない、無力な男であるかのように。 君がそこにいてくれればいい、と。 「最近、随分と日付を気にしているようだが?」 滅多に余計なことに口を挟まない東方が、不意に亜久津に問い掛ける。 けれども亜久津に返すべき答えなど用意しているはずもなく。 亜久津は静かに東方の言葉を待った。 「進めばいい。迷うことなく。きっと南も、そう言うだろう」 東方は、ひどく穏やかに、そう告げた。 きっと亜久津の背を押してくれているのだろうその言葉を、 密かに胸のうちにだけ留め、亜久津は再び窓の外を見上げた。 外は、雨。 明日は晴れればいい。 次の授業のチャイムが鳴り、いつもより僅かに早く、教師がやってくる。 別段それを気に止めていたわけではないのだが、 しかしやってきたのは、次の授業の教師ではないことに気づき、 亜久津は眉をしかめる。 教師はひどく慌てた仕草で教室を見渡し、そして亜久津の姿を見つけると、 傍に寄ってきては、教室の外へ出るように促した。 ここで面倒を起こすのは少しだけ気が進まなかったので、 亜久津はただその教師の後に続いた。 授業が始まり、静まった廊下で、教師はただこう、亜久津に告げた。 『お母さんが倒れられたそうだ』 君がそこにいてくれれば―― |