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目の前に見えるは、赤。

酷く鮮明な、血の色にも似た、不安定な赤。





+LOVE EMOTION~zero・24~
















一人に、しないで。














懸命に走りながら頭の中に浮かんでいたのはそんな言葉。

人間という生物の周りには、たくさんの同じ人間という種族がいて。

そう簡単に、地球に一人、取り残されることなどないのだけれども。

まるで、この広い世界にたった一人。

残されてしまうのではないかという不安に駆られ。

人を押しのけんばかりに、街の中を走る。


思い出すのは、朝家を出かけるときの、優紀の笑顔で。

『いってらっしゃい』

そう、笑いながら亜久津の肩を優しく叩いたのを覚えている。

覚えているのに。


亜久津は嫌味なほど白い建物の下、

緊急と書かれた入口の、赤いサイレンを視界の隅に捉えながら、

足早に病院の中へと入っていく。



見えたのは、赤。

白い壁に映り込む、禍々しいまでの、赤。





























『大丈夫、お母さんは過労で倒れただけですよ』


病院内に入り、案内をしてくれるという看護婦が亜久津に言ったのは、

こんな言葉だった。

頭の上、心のどこか隅の。

今にも崩れ落ちそうだった何かが、ふと元に戻ったような感覚。

安心したとはまた違う、奇妙な感情であった。

病院の外観と同じく、真っ白な院内は、奇妙なほどに静かで。

生活感の感じられないそれに、僅かな恐怖さえ覚えた。


看護婦が、真っ白な手で、真っ白な病室のドアを開ける。



『ここですよ』



そう言った看護婦の服はやはり白く。

淡い蛍光灯の光がそれに反射し、目に入ってくることに耐えられなく、

亜久津は僅かに視線を逸らす。


まるで病的なものがない空間。

作り上げられた空間というものに、

これほど気味の悪さを感じたのは初めてであった。



優紀はよく眠っていた。

朝は笑顔を浮かべていたその顔が、

今は僅かにやつれているように見えて。

けれども壁や床や天井とも違う、僅かに赤みの差した頬は、

優紀がしっかりと生きている証拠であった。


亜久津は優紀から目を離すことができず、

そのままベッドの横にある椅子に腰かけた。


そこで初めて自分も、ひどく疲れていたことに気づく。

妙な感覚であった。









結局、亜久津はそこで夜を明かし。

朝、優紀が目を覚ますと、一応検査とやら何やらで、

あと一日の入院を言い渡された。

特に亜久津が傍にいる必要性は感じなかったのだが、

それでも傍にいる亜久津に、優紀は何も言わなかったし、

病院の看護婦たちも、母一人子一人という環境に、何かを思ったのであろうか、

面会時間を過ぎても病室にいる亜久津を、誰も咎めはしなかった。


目を覚ました優紀は、亜久津を見てすぐに、こう言った。



『ごめんね、仁・・』



どうして笑うのかと、自分は迷惑だと思ってもいないのに。

けれども彼女は自分の母であり、自分は彼女の子供であるのだ。

彼女の、母としての心。

そして、家族というものが、その言葉を紡がせているのだと、感じた。





























気がつけば、病院でのニ日目の夜を迎えていた。

優紀のベッドの隣に置いた椅子に座っていた亜久津は、

立ち上がって、窓の外を見上げた。

天気は、雨。

昨日はあれほど晴れればいいと望んだのだけれども、

結局その願いは叶わなかったようであった。

亜久津が腕時計を見れば、既に時は10時を指しており。


結局。


このまま彼の元へ、約束のために行くことはできないのだろうと。

悲しみの涙を流す空を見上げた。


七月七日、雨。

雲の上では恋人たちが、久々の逢瀬に酔いしれているはずであるのに。

天はそれをどう感じているのだろうか。


ただ、天は。

静かに涙を零している。




この雨の中、彼は。

あの公園の滑り台の上、一人、自分を待っていてくれているのだろうか。

待っていてくれているのだろうかという期待と、

この雨の中、もし自分を待っていてくれるのであれば、

雨に濡れ、寒さに凍えてはいないだろうかという不安がある。

あの滑り台の上は屋根で覆われていて、雨に濡れる心配はないのだろうけれども。

それでも。

雨の中、たった一人亜久津を待っているのかもしれない河村の姿を思うと、

ひどく心の奥底が痛んだ。



彼が、濡れながら、亜久津のことを待っているのか、いないのか。

もう確認する術はないのだけれども。



亜久津は振り切るように窓の外から目を逸らし、

再び椅子へと腰掛けた。


そうして優紀に視線を移せば、慈しむような視線が亜久津に向けられていた。



「・・なんだよ」



問えば、優紀はクスリと吐息で笑みを零した。



「今日って七月七日なのよね・・」



紡がれた言葉に、ひどく心が動揺するのを感じながらも、

亜久津はただ頷いた。



「そうだ・・だからそれが何だ?」



「何だか・・思い出しちゃってね・・」



優紀は、穏やかな笑みを浮かべながら、真っ白な天井を見上げた。



「昔・・もう何年前だっけ?七夕の日に、仁が家を飛び出したの」



優紀の声は、静かな病室の中を穏やかに泳ぐように響く。

亜久津は、優紀の言葉に、ただ目を瞠った。



「一晩中、探し歩いて・・。結局、仁は隆くんと一緒にいたんだけど」



優紀は亜久津を見て、また一つ笑みを零した。

普段見せないその笑みは、ひどく母親染みたものであった。



「けど、私、実は全然心配してなかったんだ。

 だって、隆くんと一緒だって分かってたから。

 隆くんのご両親にはご迷惑をおかけしたけど、

 でも・・」



優紀は、一つ言葉を切る。

そうして、ゆっくりと目を閉じた。

その時のことを、思い出しているのだろうか。



「何だか、仁は隆くんといれば大丈夫だって・・。

 そう、思ったのよね・・」



優紀の腕が、僅かに掛け布団を捲り、

小さな衣擦れの音を立てて、亜久津の腕に触れた。



「仁・・今日、隆くんと何か約束してるでしょ?」



亜久津は返す言葉に詰まって、ただ優紀を見つめた。



「ずっと、外の様子を気にしてるようだったから、もしかしたらって思ったの」



どう?と尋ねられる。

けれども亜久津はまだ答えあぐねていた。

優紀が何を言おうとしているのか、まだ分からない。

すると、優紀はただ笑って、こう言った。



「もう大丈夫だから。明日には退院できるってお医者様も言ってたし。

 ただの過労。仁も分かったでしょ?」



触れた優紀の掌から、彼女の、ありったけの情が伝わってくる。

彼女の子供だからという理由で、無条件に与えられるこの情を。

素直に受け止めてしまってもよいのかと、僅かに怯えてしまう。



「だから・・」



向けられる視線は、掌から伝わる情と同等に、穏やかで。

今自分が一番弱っているはずであるのに、それでも、

他人に与えようとする、ひどく優しい想いが伝わってくる。



「早く隆くんのところへ行ってらっしゃい?

 きっと、隆くんのことだから、仁のことまだ待ってるわよ?」



クスリと笑う、優紀の吐息が真っ白な病室に溶けた。

彼女はまるで、預言者のように、疑いもなく亜久津にそう告げる。

亜久津自身がまだ、彼を信じきれていないというのに。



「・・もうこんな時間だ。アイツが待ってる訳が・・」



「何言ってるの?」



遮る優紀の声は心外だといわんばかりで。



「隆くんは、約束はちゃんと守る子よ。

 私だってそれくらい分かるわ」



肩を竦めて言う優紀に、亜久津は言い返す言葉など持ち合わせてはいなかった。

亜久津だって、河村のことを信じていないわけではない。


ただ、怖いのだ。


もし、河村がそこにいなかったらと考えてしまう自分が。

そして、そこに河村がいなかったとき、ひどく傷つくであろう自分が。

いつからこんなに弱い考えを持つようになったのだろうという疑問は起こらない。

前から自分の弱い感情を知っていた。

けれどもそれが表に出てきたのは、河村隆という人間が、

自分の日常に全く姿を見せなくなってからだ。

河村が傍にいた頃、自分はもっと強かった。

真っ直ぐ前を見て歩いていた。

けれども、自分をそうさせていたのは、きっと。



河村隆という存在だったのではないだろうかと。




「優紀・・」



名を呼ぶ自分の声が、僅かに震えているのを感じた。

窓ガラスが亜久津の声に反応するかのように、小さく震える。



「ん?」



「行ってくる・・」



「行ってらっしゃい」




笑顔で送り出されて、亜久津は病院を出る間際に、壁に掛かっている時計を見た。



七月七日、午後十一時。

あと、一時間。



交通手段は、もうほとんどない。

バスは動いてはいないだろうから、

電車を乗り継いでいくのが早いか。

亜久津は病院を飛び出し、夜の街を駆け抜けながらそんなことを考える。

いや、このまま。

このまま走っていった方が早いだろうと検討をつけ、亜久津は。

ただひたすらに、どこまでも続く都会の道を走った。



















気がつけば、雨は既に止んでいた。