+LOVE EMOTION〜zero・25〜





雨は、止んだ。

けれども何日も降り続いた雨の跡がそう簡単に消えるはずもなく。

白い地に黒と赤をあしらったスニーカーは、

もう既に水を吸って重く、脱ぎ捨ててしまいたいくらいであった。

制服のズボンの裾も濡れ。

それだけでなく、水溜りや、泥などおかまいなしに走ったのだから、

山吹中の真っ白な制服は、もう見るも無残な姿になっている。


しかし、そんなことに構っている暇などなかった。

ただ、心も、体も。

目指しているのは、あの公園で。

まるでそれが無ければ死んでしまうのではないかというくらいに、

必死で夜の街を駆け抜けた。


空に星は見えない。

都心の明るい街の中では、晴れていたとしても、

見える星の数などたかが知れているのだろうけれども。

それでも、一年に一回しか会えないという、可哀想な恋人たちを想って、

数え切れないほどの人間たちが、空を見上げるのだろう。


けれども、どんなに彼らに想いを馳せても、星は見えず。

人々は頭の中に描いた想像上の天の川を思い浮かべては、

その悲恋の恋人たちの、ひとときの幸せを願うのであろう。


呼吸は、乱れ。

けれども意識ははっきりと覚醒したように、鋭く。

どうすれば一番早く目的地に辿りつけるのか、

そしてどうすれば、彼に会うことができるのか。

まるで闘争本能剥き出しの、獣のように。

ただひたすらに、思い出の公園へと向った。


鬱々と。

最近狭い教室の中で悩んでいた自分が嘘であるかのように、

もう、河村が公園にいないなどということは思わなかった。

そんな感情が、浮かんできもしなかった。

きっと人間は、こうした境遇に置かれたとき、初めて。

その本質を見抜くことができるのだろうかと。

人間は、酷く弱いものであるかもしれないと、感じざるを得ない。


やっと、見慣れた街並みが近づいてきた。

川沿いの公園まで、あと、少し。

小さい頃、いや、たった数ヶ月前まで。

河村とともに帰った川沿いの道は、

やはり、天が流した涙によって、泥だらけであった。

何度もそれに足を取られそうになりながらも、

亜久津は必死で前へと進んだ。


あまり街灯のない道は、太陽の出ている頃、

河村とともに歩いた記憶の中にある道とは、随分かけ離れていた。

深夜十二時に近い時刻、あまり民家もないこの道は、

人の歩いている気配もせず。

ただ、ひっそりと。

息を殺して、その場に佇んでいるかのようであった。


右側は、暗闇の中静かに流れる川。

左側は、鬱蒼と茂る木々。

その中に何が潜んでいてもおかしくはないと頭の隅で思ったが、

不思議と、怖いなどとは全く思わなかった。

前へと進む足取りは、長い間走っているにも関らず、ひどく軽く。

自分を突き動かしている何かは、尽きることなく、亜久津を流れる。


視界の端に、公園の入口が映りこむ。

ぼんやりと街灯に照らされた、入口がひどく鮮明に印象に残った。

その入口を横目で捉えて。

その場で立ち止まって、息を整える。

ずっと走ってきたのだから、そんなに簡単に呼吸が整うわけはないのだけれども。

自分の、彼へのプライドが、亜久津を少し立ち止まらせたのだ。

僅かに落ち着いた呼吸を確認し、

亜久津は、公園の真ん中に佇む滑り台へと向う。

同じく、水銀灯にぼんやりと照らされた滑り台は、

やはり昼間とは全く違った様相を呈していて。

けれども。

三年前、河村とともにここで過ごしたときの、記憶の中の滑り台とは、

実によく似ていた。


亜久津は目の前の滑り台を見上げ。

そうして、

意を決してその階段を上がる。

子供用の遊具なのであるから、そんなに階段がある訳ではない。

しかし、それでも。

小さい子供が階段を上るときのように。

一段一段、踏みしめるように、上へと進んだ。



しかし。

亜久津は階段の中腹で足を止めた。

手すりを掴む手が、小刻みに震えるのを、止めることなどできなかった。

視線はただ、虚空を彷徨い。

どこに、何にぶつけてよいのか分からない感情を持て余して。

ただ、その場に立ち続けることしかできなかった。




見上げた滑り台の、上。

少し広い球形の小部屋のようになっていて。

四方に開いた窓からは公園が一望でき、少し離れた川も見ることができる、

そんな、記憶と寸分も違わないその空間には。





誰も、誰一人として、

いなかった。






しばらく、その場に立ちつくしていた亜久津は。

震える腕を押さえて、無心のうちに階段を全て上った。

小学生の頃よりも随分と成長した亜久津はもう、

その滑り台の中には背を屈めなければ入れなかった。


滑り台の中も。

その中から見る、景色も。

記憶の中のそれと、寸分も違わないのに。


ただ、彼だけが足りなかった。

三年前、ともに過ごしたこの場所には、河村の、熱が。

触れるプラスチックの冷たさすらも、忘れてしまうくらいの。

河村の熱が、ここにはあった。

亜久津は、あの時の記憶のまま。

膝を抱え、滑り台の上の小部屋に、そのまま腰を下ろした。




「・・何で、だよ・・」




呟いた言葉に、返す者は誰もおらず。

膝に埋めたまま発した言葉は、自らの体内によってくぐもって聞こえた。


ただ、呆然と。

何を見、何を発してよいのかすら分からず。

無意識のうちに腕に嵌めていた時計を見れば、

時はもう、日を越えていて。



七月八日、午前零時十分。









恋人たちの逢瀬は、終わってしまっていたのだ。


















亜久津は、ただ乾いた笑みを零した。

小さく発した笑い声は、狭い空間の中、まるで自らを嘲笑うかのようであった。


考えてみれば、河村の家は寿司屋をしていて。

優しい彼が、家の手伝いもせずに、ずっと。

この公園で自分を待っているなどということは、

ありえなかったことなのではないだろうか。


亜久津は、呆然と視線を上げ、透明なプラスチックで作られている天井を見上げる。

全ては、記憶と寸分違わないと思っていたのだけれども。

気づけば、あの時綺麗に見えていた星々は、今日は見えなく。

子供の頃とは違うのだということを、雲の上にいる、

ひどく傷つきやすい神様たちから、つきつけられたような気がした。



ずっと夜道を走ってきて、気づけば自分はひどく疲れていて。

もう、指の一本ですら動かすことも億劫だった。

焦点の合わない視界の中。



亜久津は、ふと。

小さな子供用のプラスチックの椅子の上に。

白い、何かが置いてあるのに気がついた。

亜久津は引き寄せられるかのようにその椅子に手を伸ばす。









見つけたのは、小さな紙、一切れで。

そこには、不恰好な、けれども。

ひどくいとおしいほどの想いの詰まった、河村の字があった。






『ごめん、亜久津。

 ずっと待っていたんだけど、そろそろ日付も変わるので、帰ります。

 もし、来てくれたときのために、この紙を残しておくよ。

 今年は、会うことができなかったけれど、



 来年もここで、亜久津のこと待ってるから』





「・・馬鹿野郎」




震える声を、抑えることもできずに。

膝に顔を埋める。

込み上げる感情が、溢れんばかりに、飛び出そうとして。

息もできない。




亜久津は、不意に、

三年前、河村の言った言葉を思い出す。





『だけど、好きだから会いにいけないってこともあるんじゃないかな』





亜久津は。

小さな、小さな紙切れを抱き締めて。

ただ、静かに。

涙を零した。






































『来年もここで、亜久津のこと待ってるから』