そして僕らの周りから世界が消えた。





+LOVE EMOTION〜zero・32〜





朝、目を覚ますと。

そこには知らない家の天井があって。

亜久津は僅かに驚いたのだけれども、

そういえば河村の祖父母の家に遊びにきていたのだということを思い出し、

ぼやける視界でようやく自分の置かれている状況を把握することができた。

亜久津は薄い掛け布団の中から視線だけを移し、

窓の外を見つめた。

天気は、晴れ。

太陽の高さから、もう既に朝はとっくに迎えているのだろうと想像がつく。

それを確認すると、亜久津は上体を起こそうと、

右手を敷布団の上につき、力を入れる。

すると上体は簡単に起こすことができたのだけれども。

それに反して亜久津を引っ張る力があることを感じて、

視線を、力のした方向にと向けた。


亜久津の左手は、布団の外へ出、

そうして河村の右手と繋がれていた。


亜久津が体を起こしたために、どうやら河村も覚醒を促されてしまったらしい。

僅かに身じろぐ河村は、吐息とも言葉ともつかない言葉を紡ぐ。


結局手を繋いだまま眠ってしまったのかと。

朝になって思い返せば、随分と恥ずかしいことをしたものだと。

亜久津は眉を顰めながら繋がる二人の手を見つめた。


子供の頃は、よくこうして二人で手を繋いで眠った。

しかし中学生にもなった自分たちが、手を繋いで眠るというのは、

やはりどこか奇異なものを感じざるを得ない。

しかしそんなものは一般論であり。

思考の中では到底説明もつかないような感情が。

人間の中には渦巻いているのだと、言わざるを得ない。

なぜなら、亜久津は。

どうしても、昨晩は河村と手を繋いで眠らなくてはならないと思ったのだ。

それは理屈でもなんでもなく。

亜久津の精神が織り成す、ひどく強い感情に依るものであった。


河村が起きるまでその場で待ち、ともに朝食をとった。

昨日の疲れも残っているため、午前中はゆっくりと家の中で過ごし。

河村と話し合って、午後は歩いて45分ほどのところにある、

村営のプールに向かうことにした。

午後のプールの開始は1時であり、

河村と亜久津は、祖母に頼み、少し早い昼食をとって、プールへと向かった。


山の中とはいえ、真夏の太陽は侮ることはできない。

河村の祖母は、炎天下の中歩く二人を気遣って、

大きなつばの麦藁帽子を二つ、二人に手渡してくれた。

亜久津は別に帽子など被らなくても構わないと思ったのだが、

ひどく嬉しそうに麦藁帽子を受け取る河村を見て、

亜久津も被っていくことを決めた。


河村の祖母の愛情が詰まった麦藁帽子は、

邪魔であるとか、そういう類の感情を一切思い起こさせなかった。


プールに着き、小さな折畳式の机の前に立つ村の職員にお金を払い、

開始に合わせて水着に着替える。

村のプールというくらいだから、亜久津は小さいものを想像していたのだが、

学校にあるものと、同じくらいのものが一つと、

子供用の、滑り台もついた小さなプールが一つという、

中々充実したものであった。

夏休み中で、河村と亜久津のような子供たちが多いのだろうか、

平日の昼間とはいえ、そこそこプールは賑わっていた。

静かな山の中でも人のいるところはいるものだと、

昨日の駅前の、静まり返った光景を思い出し、そう感じた。



プールからの帰り道。

行きも歩いた田んぼの中のあぜ道を。

二人。

乾かない髪もそのままに、歩いた。

そのまま家に帰るのかと思いきや、

河村が行きとは違う道へ向かいだしたので、

不思議に思ってついていくと、木々の間に囲まれて、

小さな店が一件、そこに構えていた。

河村は勝手知ったるというように、その店の中へと入っていく。

クーラーのきいた店内は涼しく。

その中には案外人がたくさんいた。

小さな店の割りには、生活雑貨や食品が揃っているこの店は、

周りに住んでいる人達にとって、欠かせない店なのだろう。


河村は、店の中を歩き、アイスクリームのある冷凍庫の前に立つと、

亜久津に向き合った。


「ばあちゃんに小遣いを貰ったんだ」


そういってポケットから取り出したのは、210円。

二人でアイスを一個ずつ。

買って帰ってきなさいという、心遣いなのだろう。


河村が、アイスケースの扉を開ける。

すると亜久津の頬にひんやりとした冷気が触れた。


「亜久津、何がいい?」


促されて亜久津は、ケースの中を一通り見渡す。

そこには色とりどりのアイスがあったのだけれども。

亜久津は迷うことなく一つのアイスを選びだした。


「これだ」


それはオーソドックスな、カップのバニラアイスで。

普段であれば滅多に口にしないそれであるのに、

何故だか今は、無性に甘いバニラの味を口にしたかった。


「そっか・・じゃあ、俺も・・」


河村が取り出したのも、亜久津と同じ、バニラアイスだった。


「なんだか今、これが食べたい気分なんだ」


亜久津とまるで同じことを言う河村に、

亜久津はただ笑ってみせた。


貰ったお金で勘定を済ませ、手に手にアイスを持って外へ出る。

家まで帰ってから食べようかとも思ったのだが、

着くまでに溶けてしまうだろうと、亜久津と河村は店の外の、

僅かに段になったコンクリートの上に腰を下ろした。

カップを開け、蓋は店のゴミ箱の中。

木のスプーンですくった真っ白なそれは、

口の中に入れると、想像と違わない甘い味が広がった。


「うまいな」


「そうだね」


幸せそうにアイスを頬張る河村を横目で見ながら、

亜久津も何度もアイスを口に運ぶ。

冷えたそれが、ひどく心地いい。


口に運んだアイスを舌先でとかす。

純粋に甘いそれは、山の中の、この村の綺麗な空気と相まって、

普段では味わえない爽やかな甘さを醸し出す。

だからバニラアイスが食べたかったのかと。

無意識にそれを選んでいた自分の思考に納得をした。


「亜久津」


亜久津が舌先でその甘さを味わっていると、

河村が微笑みかけてきた。


「うちのばあちゃんちは、気に入ってくれた?」


河村が誘って連れてきたということもあり、

亜久津の反応が気になっていたのだろう。

僅かに不安そうに眉を落としながら、亜久津を見ていた。


「悪くないな」


そう答えたのは、嘘でも偽りでもない。

普段の生活からはかけ離れた、煩わしいことを何も考えなくてもいいこの環境は、

ひどく亜久津にとって心地よかった。

それに。



傍には河村がいる。




「そうか・・よかった」


心底嬉しそうに、河村は笑顔を浮かべる。

けれども亜久津は正面からその笑顔を見ることができなく、

自分の足元へと視線を落とした。

素足に履いたビーチサンダルで、近くにあった小石を弄ぶ。

動かす度に触れる爽やかな空気が、火照った体には気持ちよかった。

河村はそんな亜久津を見て、一つ笑うと、自分も足元に視線を落とす。




「・・七夕の時に、会えなかっただろ」




突然、空気を震わせた言葉に、亜久津体を震わせる。


別に。

避けていた訳ではなかったのだ。

その話題を。

けれども、河村に偶然、いつもの帰り道で出会ったときも。

そしてここへ向かう電車の中でも。

ここに着き、二人きりになったときにも。

その話題が口をつくことはなかったのだ。


無意識のうちに、閉ざされていた何かが。

お互いの中にあったのかもしれない。


しかし河村は、まるで意を決するかのように、この話題を口にした。



「約束してたのに、結局会えなくて・・」



ゆったりとしたトーンで語る河村の表情は、伺えない。

きっと、いつもと変わらない、どこか不安そうな顔をしているのだろうけれども。



「だから、思い出が欲しかったんだ」



河村の言葉に、目を瞠る。

まさか、そんな風に思ってくれているなど、思ってもみなかった。



「・・思い出?」



「うん。亜久津と、学校離れちゃったじゃない?

 だから、思い出が欲しかったんだ。

 ずっと、長い間心に残るような、そんな思い出が」



河村は一つ呼吸を置き、言葉を続けた。

言葉に、僅かな緊張が混じっていると思うのは、気のせいだろうか。




「思い出、っていう言葉はおかしいかもしれないね。

 ・・本当は、来年まで亜久津と会えないのは嫌だから、

 亜久津に・・」







会いたかったんだ。







そう告げた河村は、照れたように頭を掻いた。

亜久津は。

ただ。

そうだな、と。

大して当り障りもないような返事をするので精一杯だった。


ぼんやりと、足先を見つめていた視界の中で、

外気に触れたアイスが、僅かに溶け始めている。

形あるものはこんなにも脆いのかと。

そして、形のないものは、実はそれほど脆くはなかったのだと、気づく。


この話題を。

避けてはいないと。

意識的に避けているのではないと思っていた。

しかしそれは間違っていて。

きっと、亜久津の心のどこか、記憶を閉まっておく扉の鍵を。

何時の間にか無意識に閉めてしまっていたのだろう。


ぐるぐると。

熱を有した感情が体の中を回る。

締め付けられるような想いは、亜久津の全てを蝕んでいくようだ。


息もできない。





もし、ここで。

亜久津も。

河村と会いたかったのだと。

素直に告げることができていたら、どんなによかったのであろう。



きっと、河村は。

顔を真っ赤にしながらも、

ひどく幸せそうに、


『有難う』


と。

言ってくれたに違いなかった。



手にしたバニラアイスを見つめる。

舌先に触れる、甘い甘いアイスの香りよりも。

ひどく甘く柔らかい感情が胸の中を占めていた。





何も答えない亜久津を、どう思ったのだろうか。

河村は突然立ち上がり、再び店の中へと入っていく。

亜久津が驚きながらその様子を見ていると、

河村は何かを手にして、すぐに店から出てきた。



「さっき、思いついたんだ」



手渡されたのは、色とりどりの手持ち花火で。



「最後の日、花火しようか?

 きっと、綺麗だと思うよ」





河村は。

思い出を作ると言った。


けれども、自分の中にはたくさんの、

河村との思い出があって。


そのどれもこれも、幸せで。



自分の世界の幸せを、作ってくれるのは。

いつも。


河村隆という人間であった。















留め金は外された。

残ったのは、君という名の世界だけ。