きっかけは、ひどく些細なことであった。 +LOVE EMOTION〜zero・33〜 ふとしたはずみで、発情にも似た思いを。 呼び起こしたのは、本当に些細なことだった。 風呂から上がり、おざなりに髪を拭く。 プールに入ったために、残っていた塩素の香りは、 風呂にゆっくりと浸かることによって、取り除かれたようだ。 亜久津はそのまま部屋に戻り、昨日と同じように、 河村に、風呂から上がったことを告げる。 「河村、風呂上がったぞ」 「ああ、有難う亜久津」 と。 別に礼を言われるほどのことをした訳でもないのに、 河村はいつも律儀にそんな言葉を口に乗せる。 それは到底亜久津にはできない芸当で。 人に気を使う河村を見る度に、本当は無理をしているのではないかと思うのだが、 決してそうではなく、河村の本質的な性格がそうさせるのだろうと。 気づいたのは極最近のことだ。 河村が、着替えを持って立ち上がる。 その際に、ドアの近くに立っていた亜久津のところへ近づいてきた。 何かあるのかと、亜久津は河村と視線を合わせる。 河村は亜久津の前へ立つと、ふと手を伸ばしてきた。 「・・髪、あんまり濡れたままだと風邪ひくよ」 紡がれた言葉はひどく優しく。 春風のように亜久津の耳に触れて、そうして心の奥に降り積もる。 伸ばされた河村の指は、下ろされた亜久津の前髪を掠め。 目に入りそうになっていたそれを、そっと人差し指で掬う。 鮮やかな。 一瞬の出来事であったそれは、けれども亜久津の心を粟立たせるには十分だった。 微かに瞼に触れた河村の指先は、熱く。 触れられたそこから熱を発していきそうなほど。 まずい、と。 本能的に感じた。 「どうしたんだい、亜久津・・?」 いつもとは違う亜久津の異変に気がついたのか、 河村が心配そうに顔を覗きこんでくる。 今の亜久津にはそれすらも耐えられそうになく。 再び触れてこようとする河村の手を、右手で強く払い落とした。 「・・早く風呂行けよ」 やっと紡ぎ出せた言葉は、僅かに掠れ。 これ以上言葉を紡ぐことは躊躇われ、河村から視線を外し、 ひたすら俯いていると、態度のおかしい亜久津を気にかけながらも、 河村は何も言わず、そっと部屋を後にした。 離れていく河村の足音を聞き、完全にそれが聞こえなくなった途端に、 亜久津は壁に背を預け、そのままずるずると座り込んだ。 今のは、何だ。 未だ胸を打つ鼓動は早く。 亜久津は治まらない胸の鼓動に、ただただ不安を覚えた。 自分は一体どうしてしまったのだろうかと。 体中の血液は沸騰するように熱く。 柔らかく耳に残る河村の声と、触れる指先の熱をいつまでも忘れることができない。 記憶の中に残ったそれは、ひどく鮮明に思い起こされ、 亜久津の心を乱していく。 亜久津は自らの膝に顔を埋め、小刻みに震える手をしっかりと握りしめる。 ほんの些細なことであったはずだ。 しかし、それはしっかりと、亜久津の心を乱してくれた。 今までもこんな接触なんて数え切れないほどあったはずであるのに。 一体自分はどうしてしまったというのだろう。 触れる熱。 まるで綿菓子のように柔らかく自分を包んでくれる優しさ。 亜久津はただ唇を噛みしめて、流れる感情を抑えた。 このままでは、河村と顔を、あわせることすらできない。 どれくらいそうしていたのだろうか。 正確な時間を覚えているはずもなく。 けれども結構な時間そのままでいたのだろう。 河村が襖を開け、部屋へと戻ってきた。 部屋へと入ってきた河村は、先ほど出て行ったときと同じ位置に、 亜久津がいたことに驚いたようで。 慌てたような気配が伝わってきた。 しかし今は亜久津にも、それを思いやる心の余裕は、ない。 河村がおずおずと、亜久津に近づいてくる気配がする。 けれども亜久津は、顔を上げることすら、できなかった。 「髪拭かないと風邪ひくよって言ったじゃない・・」 困ったような河村の声が、思いがけずひどく近くで聞こえ。 その不意を突かれる事柄に、亜久津は僅かに体を震わせた。 きっと、随分心配をしてくれているのだろう。 伸びてくる手は亜久津に触れようとし。 亜久津は。 ついさっきの河村の、指先の熱を思い出し。 気がついたらその手を、振り払っていた。 否。 振り払うことしかできなかった。 「触るな」 ただそう告げて。 「亜久津・・」 「五月蝿い」 問い詰めようとする声すらも遮った。 早く、この場からいなくなってくれればいいと。 亜久津に愛想をつかして、早く居間にでも向かってくれればいいと。 そう、思っていたのに。 「・・亜久津」 思わず強い声音が亜久津の耳に触れる。 きっと亜久津の顔を上げさせようと触れたのだろう河村の指先を、 振り払おうと手を上げたのだけれども。 今度は河村の手を振り落とすことなく、壁に縫いとめられるように、 河村に手首を掴まれた。 まさか河村がそんな反応をするとは思わず。 一瞬遅れて、河村の手を振り解こうとしたのだけれども、 河村も亜久津と同じ、空手をやっていたのだから、 そう簡単に振りほどけるはずもなく。 数回足掻いてはけれどもびくとも動かない腕に焦れながらも、 けれども掴まれた手首から伝わる河村の熱に耐えることができずに。 まるで聞き分けのない子供のように、手を振り解こうと抵抗を重ねた。 「亜久津・・!どうしたんだよ、俺が何かした?何かしたなら謝るから!」 決して亜久津の腕を掴む力を緩めずに、河村は一気に喋る。 河村が悪い訳ではないのだ。 だから放っておいてほしいというのが本音であるのに。 お節介な河村は、こういう人間を見ると放っておくことなどできないらしい。 「五月蝿い、触るなって言ってんだろ!」 癇癪を持った子供のような言葉を紡ぐ。 今度は掴まれなかった左手で河村の手を振り解こうとしたのだが、 結局は力なく、河村によって両手ごと封じ込められてしまった。 とうとう身動きがとれなくなった亜久津は、ただ河村から視線を逸らすことしかできなかった。 じっと。 ただじっと、河村が次に口にする言葉を待った。 沈黙が重い。 亜久津を押さえるためだろう、強い力で握られた手首が痛みを発する。 けれど、どちらもそんなことに構っているような余裕もなかった。 「・・亜久津」 常よりも1トーン低い河村の声が部屋に響く。 まるで死刑宣告を受ける受刑者のような気持ちさえする。 「・・ごめん」 河村が何に謝ったのかは検討がつかなかった。 けれど、河村はそれ以上は何も言わず。 掴まえていた亜久津の腕を離すと。 その腕を静かに亜久津の背へと回した。 背には壁。 逃げられるところなど、何処にもなく。 回される河村の腕は、温かく。 ただ静かに抱き締められた。 一定のリズムで聞こえる鼓動。 それに包まれて、今までの嵐のような感情が嘘のようにおさまっていく。 亜久津はその温かさに包まれながら、目の前にある河村の肩に顔を埋めた。 河村は、何も言わず。 ただ、亜久津をずっと抱き締めてくれていた。 夜。 今日も河村の祖母がひいてくれた布団で眠る。 先ほどのことがあったからかお互い口数は少なく。 けれども部屋を流れる空気は、決して嫌なものではなかった。 亜久津が布団に入り、河村が電気を消してもよいかと尋ねる。 それに頷くと、部屋の電気が消え、暗闇の支配する世界となる。 亜久津は瞼を閉じることなく、ただその暗闇を見つめていた。 頭を回るは今日の出来事。 自分でも理解のできない感情は一体どこから溢れたものなのだろうかと。 懸命に思考を巡らせてはみたのだけれども、 結局亜久津は考えるということを放棄した。 きっと、自分が考えなくとも。 答えは見えてくるだろうから。 そう、思い直して亜久津は瞼を閉じようとする。 そのとき。 隣で寝返りをうつ音が聞こえた。 きっと河村も寝付けないのだろう。 亜久津は閉じようとしていた目を、そのまま開き、河村の方を見つめる。 今日は繋がれてはいない手。 きっと河村なりに気を遣ってくれているのだろうけれども。 それが少し、淋しかった。 「河村」 暗闇の中、亜久津に背を向けて眠る河村に声をかける。 すると河村は驚いたように亜久津の方を見る。 「どうし・・」 「そっちに行ってもいいか」 「え?」 亜久津は返事を貰う前に、自分の布団から上体を起こしていた。 そうして。 未だ状況が理解できていないのだろう河村の布団に入り込む。 そうして。 向かい合って、未だ動揺を隠せない河村の手を握る。 「ほら、寝るぞ」 繋いだ手を眼前に掲げ、そう告げれば、 河村もようやく理解したのか、亜久津に笑いかけた。 「そうだね。寝ようか」 そうして、二人で笑顔をかわして、瞼を閉じた。 近くに聞こえる河村の心音に安心感を覚えながら、 眠りに落ちる前に、遠くで河村の小さく囁く声を聞いた。 ・・いい夢を。 |