+LOVE EMOTION 〜zero・6〜





時は静かに歩みを進め。

美しい朱に染まっていた空は、次第に藍色へと飲み込まれていく。


しかし亜久津はそんな空の表情に気づくことはなく。

ベンチに座り、片膝を抱え、

そうして、じっと地面を見据えていた。

色を変えていく空にも、流れていく雲にも、

そうして輝き始めた星々にも気づくことはなかった。

ただずっと、乾いた地面と、投げ出された自らの足を眺めていた。




腕に触れる堅いベンチの木の感触。

頬を撫でる、湿気を含んだ風。

耳に聞こえる音は、遠くを流れる川の音だけだった。

時間の感覚はもう麻痺してしまっていて、

どれくらいの時が過ぎたのかは分からなかった。




家から飛び出した亜久津は、今とある公園にいた。

夏だというのに静かなそこは、

まるで周りの世界から隔離をされた別世界のような気さえする。

公園内に人はなく、

ぼんやりと灯る青白い電燈がだけがその存在を主張していた。

気がつくと辺りはすでに暗く。

ずっと眺めていたはずの地面にはいつしか、

電燈に照らされてできた自分の影が映っていた。

光に照らされて輝く地面とは対照的に、

亜久津の影は今までに見たこともないほどに深い黒で染められていた。




自分が身動きをする度に蠢く影は、

自らが作り出しているものであるはずなのに、ひどく気味が悪かった。




地面を眺めていた亜久津は僅かに体を震わせて視線を上げた。

夏に近づいたとはいえ、まだ盛りには程遠い。

意識を自分の中から外へ向けた亜久津は、

初めてその肌寒さに気がついた。

亜久津は半そでのシャツから出る腕に目をやり、

そうして適当に手で肌を擦った。





どれくらいの時が過ぎたのであろうか。

まだ冷静になりきれていない頭で、ぼんやりとそう思った。

飛び出してきたはずの自分は、

それでも心配をして近くを走り回っているだろう母を思って僅かに眉を顰めた。

自分よりももっと傷ついているだろう母に、

これ以上の苦労をかけるのは心痛むことであった。

けれども亜久津は、

心を穏やかにしたまま家に帰ることができるような大人には、

まだなりきれてはいなかった。




寒さを訴える腕と、剥き出しになった膝を抱えて、再び地面を眺める。

しばしの間、外にいたことで僅かに冷やされた思考と、

まだ収まり切らないきらない感情が拮抗し、考えを纏めることができない。



――どうしていいのか分からないのだ。

頭の中が真っ白になるとはこういうことを指すのであろう。

何か動き出さなくてはならないのに、どうすることもできない。

この場から動きだすという考えさえ浮かばない。

渦巻き状に巡る思考は亜久津を支配し、動けなくさせていた。

こんな出来事は今までになく、その事実を受け入れることで精一杯であった。





ここは、公園。

いつも河村と共に帰る道沿いにある、公園。

川沿いの道から少し入ったところにあるそこは。

近くに住む人間しか知らないような、小さな公園であった。

公園の中央には一つ。

滑り台のような遊具がぽつりと、その存在を主張していた。

ここに来たのは意識的なことであったのか。

今ではもう分からない。

走り出す亜久津の頭に突然。

浮かんできたのはあの顔で。

気づけばここに座っていた。




けれども夜は実家の店の手伝いをしている彼がここにいるはずもなく。

誰もいない夜の公園で、亜久津は一人片膝を抱えて座っていた。




会いたかったのだ。


きっと、自分は。


会えないということは分かっていた。


けれども。


共に帰る道を歩き、帰り道に見える公園に来て。

一人で”河村”という存在を思い出すことができる場所にいることができれば、

それで自分はよかったのかもしれない。




よく分からない想いに、亜久津は口の端に笑みを浮かべた。

分からないものは、分からない。

いつも以上に頭の働かないこの状況では、分からないのは当たり前だ。

ただ、霞んだ思考の中で見えたものは、柔らかく笑うあの河村の姿だけであった。




亜久津は抱えた膝に顔を埋めた。


もう少し。


もう少しだけここにいよう。


そうすれば自分は動き出すことができるかもしれない。


亜久津は、僅かに火照った目頭を、風に晒されて冷えた腕の肌へと押し付けた。

その冷たさに満足をして、亜久津は静かに目を閉じた。




どれくらいの時間が過ぎたのであろうか。

突然に耳へと入ってきた地面を駆ける音に、亜久津はふと顔を上げた。

その足音には聞き覚えがある。

懸命に呼吸を切らしながら近づいてくる人物の顔を、

亜久津はどこか安心した顔で見つめた。



彼が来てくれるということを心のどこかで予想していたのかもしれない。




「亜久津・・!」




河村は、亜久津の顔を見ると安心したようにほっと息をはいた。

そうして凭れ掛かるように、河村は亜久津を抱き締めた。

亜久津は何も言わなかった。

激しく上下運動を繰り返す肩と。

乱れた呼吸は、自分を懸命に探してくれていた証。




夜風に吹かれてひえきっていた亜久津の肌は、

触れる河村の肌と同化し、境目がなくなったかのように、熱を持ち出す。

亜久津に直に伝わる河村の鼓動が心地よかった。




「河村・・」




無意識に呟いた声は、空気を揺らし、

誰もいない公園内に、静かに響き渡った。




河村の肩越しに、今日初めて空を見上げる。



星の輝く、やけに明るい、夜だった。