りぃん、と軽やかな鈴の音が鳴る。 軽やかな下駄の音と、遠くから聞こえる低い太鼓の音。 今年もまたこの季節が来たのかと、部屋の中にかけられた2着の浴衣を眺めた。 +夏の誓い 河村と一緒に夏祭りに行くようになったのは何年前からだろう。 正確に思い出せないくらいなのだから、かなり小さな頃から共に夏祭りに出かけていたのだろうと思う。 昔からこの季節になると、優紀に浴衣を着せられて二人。 少しのお小遣いを手に握り、近くの近所の夏祭りに出かけたのだ。 こじんまりとしたその神社の夏祭りは、それでも近所でも人気の祭りだった。 大人から子供、そして老人まで集まり、それぞれに祭りの雰囲気を楽しんでいるようだった。 亜久津はふと、机の上に置いてある小さな箱に視線を移した。 普段はそんなところに置いてはいないのだが、毎年夏祭りが近づくと思い出すように引き出しから出すのだ。 小さな頃の思い出。 夏祭り、と聞くと必ずといっていいほどこの出来事を思い出す、というような強い思い出だ。 河村はもう覚えてもいないのだろうけれども、亜久津にとっては大切な思い出だった。 箱を手に取り、蓋を開ける。 そこには亜久津には似つかわしくない、可愛らしいおもちゃの指輪が入っていた。 少し古ぼけたそれは、けれども昔の姿を保ったままだ。 亜久津はじっとその指輪を見つめた。 もう、何年前のことになるだろうか。 河村と亜久津はいつも通りに一緒に夏祭りに出かけた。 まだ明るい頃から鳴り響く太鼓の音と、ぼんやりと光る提灯の明かりに待ちきれなく、 夕暮れから神社へと遊びに出かけた。 優紀はその頃からもちろん働いていたのだけれども、 夏祭りの時には必ず家にいて、そうして着付けをしてくれるのだ。 浴衣に着替えて、高揚した気分もそのままに神社の出店を回る。 まだ子供だからと、持たされたのは少額の小遣いであったが、 しかし子供から見れば普段はあまり持たされない額の大金で。 表情には出さなかったけれどもそれなりに店を回ることが楽しかったのを覚えている。 それを河村も察していたのか、普段よりもずっと多く笑っていたし、酷く楽しそうだった。 カキ氷屋で大きなカキ氷を買い、回りながら頬張った。 三角くじを引き、小さな景品を当てた。 地元の自治会が無料で配っているジュースを飲んで、神社の境内の木陰で一休みをした。 河村の提案で、ちゃんと神社におまいりをしようということになり、 普段は神様なんて信じない自分が、手を合わせて祈る、という行為をしてみたりもした。 自分のスタンスを少しだけ崩してもいいと思えたのは、やはりその雰囲気に飲み込まれたせいだと思う。 静かに響き渡る祭囃子の音色、ぼんやりと闇夜に映える提灯の明かり。 着慣れない浴衣に、固い草履。 日が落ちて肌に触れる風は柔らかくなった。 そんな雰囲気が亜久津を少しだけ変えたのだ。 あまり遅くなる前に帰ってらっしゃい、という優紀の言いつけどおり、河村がそろそろ帰ろうと言い出した。 十分に楽しんだ自分はそれに反論はなく、河村とともに帰路についた。 これからが夏祭りも佳境になる、というときに神社を後にしようとする。 その淋しさに少しだけ後ろ髪を引かれながら、参道を歩く。 すると、ふと子供向けの雑貨を売る出店に目がいった。 女の子向けのアクセサリーや遊び道具を売るその店自体に興味があった訳ではない。 けれど、そこに置いてある一つのものに目を奪われたのだ。 思わず立ち止まってそれを眺める。 それは、深い緑色の石がついた玩具の指輪であった。 別にどこにでも売っていそうなものであるのに、どうしてか目を離すことができなかった。 その鮮やかな緑色が目に焼き付いて離れなかったからだ。 「どうした、亜久津?」 隣を歩いていた河村が、亜久津の異変に気がついて立ち止まる。 「いや、何でもねぇよ」 河村に声をかけられてはっと気づく。 しかし目を離そうとしたけれども、未練がましくそれを視線で追ってしまう。 「亜久津、あの指輪が欲しいの?」 それに気づいた河村がそう尋ねてくる。 しかし素直にそうだと言うこともできず、返事に渋る。 欲しいのかどうかは分からない。 けれど、心の中に入り込んで離れないのも事実だ。 深い緑色が河村を思い起こさせる。 何をも包むその穏やかさがひどく河村に似ているように思えた。 自分の好みで欲しいと思うわけではないのだけれども惹き付けられる。 「俺が買ってあげるよ」 その言葉に亜久津ははっと顔を上げる。 優紀から貰った小遣いは先ほど全て使い切ってしまったはずだ。 「金なんか持ってないだろうが」 「ううん、少しだけ自分のお小遣いを持ってきたんだ」 小学生の河村がそんなに自分の小遣いを持っているとは思えなかった。 「馬鹿、見栄なんか張るんじゃねぇよ」 「大丈夫、あ、これください」 そうして河村は自分の小遣いを出し、亜久津にその指輪をプレゼントしてくれた。 「はい、亜久津」 緑色の石のついた指輪が河村の手から渡される。 手の平に乗った指輪は小学生の亜久津の指には少し大きいように感じられた。 しかしその指輪は何故だか亜久津の手の平に馴染むような気がした。 「・・悪ぃ」 感謝を込めた短い言葉を紡ぐ。 すると河村は心底嬉しそうに破顔してみせたのだ。 「亜久津が喜んでくれれば、それが一番嬉しいよ」 その笑顔を一生忘れることができないだろうと、その時強く確信したものだった。 ―・・亜久津? 突然近くで聞こえた声に、亜久津は驚く。 はっと顔を上げれば、そこに今思い描いていた人物がいた。 「何回呼んでも声がしなかったから勝手に入ってきちゃった、ごめん」 少しだけすまなそうに河村は頭をかく。 この指輪を見て、自分はどれだけぼんやりと過去を思い出していたのだろうかと僅かに羞恥心に駆られる。 それから、この指輪をどこかに隠さなくてはならないことに気がついて、内心慌てた。 もう河村も覚えていないかもしれない過去の思い出を、いつまでも引き摺っている自分が恥ずかしかったのだ。 僅かにあたりを見回すが、今から不審がられずに箱を隠せる場所は見当たらなかった。 そうこうしているうちに河村が近づいてきて、手の中を覗き込まれた。 「何持ってるの、亜久津?」 思わず隠そうと手を避けたのだが、しかし隠し切ることはできなかった。 手の中を見た河村はそれを見て、意外なことに目を瞠った。 「・・亜久津・・それ・・」 河村は言葉を詰まらせる。 もう隠しても仕方がないと、亜久津は開き直って河村にその指輪を見せた。 「・・持ってて、くれたんだ」 河村の声が僅かに震える。 恥ずかしくて河村の顔を見ることができないまま、亜久津は僅かに頷いた。 「・・そっか」 嬉しいよ。 その声に顔を上げると、ひどく嬉しそうな、けれど泣きそうな顔をした河村の表情が目に入る。 指輪をくれたときの笑顔より数段と大人びた笑顔に、鼓動が跳ねる。 もう出会ってから何年も経っているのに、未だにこんなに心が動かされる。 この強い感情を恋という言葉で簡単に表してしまってよいのかと、疑問にさえ思う。 「あの後亜久津が何も話題に出さないから、もう忘れられてるのかと思ってたよ」 忘れている、どころか。 ずっと大切な思い出としてしまってきた。 誰にも汚されることのないようにと、大切に。 きっと河村が思っているよりもずっと、あの日の出来事を大事に思っている。 「・・馬鹿か」 「うん、馬鹿だった」 悪態をつけば、河村がするりと亜久津に手を伸ばす。 その手を嫌がることなく、河村の腕の中に収まる。 「有難う、嬉しいよ」 優しい腕に抱きこまれる。 その温かさにほっと安堵の溜息をつく。 「その指輪、さ」 河村がためらいながら言葉を紡ぐ。 亜久津は静かに言葉の続きを待った。 「あの時、どうしても俺が亜久津に買ってあげたかったんだ。 他の誰でもない、亜久津に。 子供ながらに、・・プロポーズみたいな気分でさ」 どくり、と鼓動が跳ねる。 何てことを言うのだ、この男は。 そんなに大切なことをさらりと。 何の準備もしていなかった心に、河村の言葉がストレートに染み渡ってくる。 嬉しくて、恥ずかしくてどうしていいのか分からず、思わず河村の腕をぎゅっと握る。 「そういうのは・・相手の了承取ってから渡すもんだろうが」 「うん、ごめん」 すると河村は真っ直ぐに亜久津を見つめた。 覗き込まれて、亜久津の鼓動が再び跳ねた。 「じゃあ、ちゃんと聞いてもいい?」 答えを。 「馬鹿。 ・・気づけよ、ずっとこんなおもちゃの指輪持ってたんだ」 言葉の裏に本音を潜ませて、僅かに口の端を上げて笑う。 すると河村も理解したようで、心底嬉しそうに笑う。 ―それは、指輪をくれたときのあの表情と似ていて。 亜久津は思わず、今自分は数年前の神社にいるのではないかという錯覚すら覚えた。 「有難う、亜久津」 礼を述べる河村に一つ頷き返して、そうして静かに河村の腕の中に収まる。 河村も何も言わずに亜久津を抱き締めた。 遠くからは、盛夏が去っていくのを惜しむような祭囃子の音が聞こえた。 |