河村に連れられて街を歩いた。 亜久津より僅かに先を歩く河村の頬は、微かに上気していて。 道を歩く間中、ほとんど何も話さなかったのだけれども。 どうしてだろう。 河村の緊張が伝わってくるような気がして、 亜久津も知らず知らずのうちに固くなっていることに気がついた。 自分らしくもない、と思う。 けれど、どんなに緊張を解そうとしても、体は言うことを聞いてはくれなかった。 やはり自分も随分と緊張をしているらしい。 見慣れた街並みを抜けて、河村の家の近くまでたどり着く。 忘れもしない、河村の家。 その輪郭がぼんやりと見えてくるにつれて、亜久津の鼓動も早まっていくのが分かった。 らしくもない。 らしくもない。 そう思って普段の自分を装おうとするのだけれども、やはりそれは叶わなかった。 二人の歩く音が街の中に響く。 夕暮れ時だというのに何故か人はいなく、耳の奥に響く鼓動や、二人の歩く音、 橙色の夕日が照らす河村の横顔がちらついて頭から離れなかった。 あと少しで河村の家に着くという、そんな時。 突然、河村が立ち止まって亜久津を振り向いた。 そうして。 いつもの柔らかい笑みで亜久津に笑いかけてきたので。 亜久津も思わず口の端に笑みを浮かべた。 なんだか、二人で。 悪いことをするような気分だった。 +手を繋いで歩こう 表の、店の入り口からは中に入らず、裏の勝手口から中へと入る。 河村寿司の外観とは違い、裏の玄関は至って普通の家の玄関であった。 裏口から、河村に促されて家の中へと上がった。 河村の家の廊下は板張りであり、歩くたびに僅かに音がする。 静かな家の中に二人の歩く音が響く。 けれども何故だか大きな音をたててはいけないような気がして、 僅かにだけれども足先に力を込めて、なるべく音を立てないように歩いた。 それは、河村に気づかれないほどの小さな努力であったのだけれども。 河村の家の中はひっそりとしていた。 きっと河村の父も母も、店の方で開店の準備をしているからなのだろう。 静かな家の中で二人歩いているというのは、 やはりどこか悪いことをしているかのような気分に駆られた。 そういえば、と亜久津は思い出す。 河村には一人妹がいたのだが、今はその気配はない。 きっとまだ帰ってきてはいないのだろうと、玄関の靴の並びを思い出し、そう想像した。 「亜久津、ちょっとついてきて」 河村はそう言うと、廊下を左に曲がった。 亜久津もそれに従い、河村の後ろを歩いていくと、すぐ先に調理場が見えた。 きっと店に繋がっている場所なのだろう。 すると河村はそこで大きな声をかけた。 「ただいま〜」 すると調理場の奥から、河村の父と母が顔を出してくる。 何年かぶりにその顔を見たのだが、二人とも昔となんら変わっていないように思えた。 「おう、隆、お帰り」 「お帰り、隆」 二人の声が重なって、調理場の中に響く。 その声も、昔と変わらぬ声のまま。 「今日は亜久津を連れてきたよ」 突然河村に話を振られ、まだ心の準備をしていなかった亜久津は僅かにたじろいだ。 今の自分の外見が彼らにどう捉えられてしまうのだろうかということが少し気がかりであった。 昔とは変わってしまった自分を見て、彼らはどういう反応を示すのか。 気にはしないと思ってはいるが、きちんと現実としてその光景が現れたとき、 やはり自分は少なからずその光景に傷つくことになるのだろうと、うっすらながら思っていた。 河村の父と母の視線がこちらを向いたのを感じ、亜久津は僅かに頭を下げた。 「おお、仁くんか!元気にしてたか?」 「仁くん・・!まぁまか随分と大きくなって!お母様はお元気?」 顔を上げて、少しだけ躊躇いながら彼らの表情を見たのだが、 彼らは自分が心配をしていたのが嘘であるかのように、穏やかな笑顔で自分を見ていたのだ。 彼らは紛れもなく河村の親なのだと理解した瞬間だった。 こういう人達から生まれたのだから、今傍にいる河村という人間が育ったのだ。 亜久津は僅かに河村を見た。 生きてきた中でこうして目上の人間とまともに会話した経験がほとんどなく。 どう答えていいものなのだろうかと、亜久津は分からなかったのだ。 すると河村も亜久津の方を振り向き、顔に穏やかな笑みを浮かべてみせた。 まるで、大丈夫だよ、とでも言いたげに。 「ちょっと親父!お袋!一気に聞きすぎだよ。もう恥ずかしいなぁ・・」 「おっと、悪い悪い。悪い癖が出ちまったな!」 豪快に笑い飛ばす様も、昔と全く変わってはいない。 おおらかな、河村の父だった。 「もう俺たちは行くから・・。そうだ、俺今日は店手伝えないからね」 「分かってらあ、そんなこと!今日はゆっくり亜久津くんと昔話に花を咲かせるんだぞ!」 はいはい、とおざなりな返事をしながら、 河村は亜久津の背を押して来た方向へと逆戻りをしていく。 その時にチラリと後ろを振り向くと、どこか嬉しそうに笑う河村の父の姿があった。 もしかしたら。 勘のいい河村の父は自分たちの関係に気がついているのではないかという気がしたのだが、 ありえないことだと亜久津は考えを頭から放り投げた。 廊下を歩き、河村の部屋へと向かう。 向かう道はやはりどうしてか、二人とも何かに支配されたかのように無言であった。 パタリ、と襖が閉められる。 たった薄い一枚の襖によって閉ざされただけの空間であるのに、 今まで存在していた空間とは比べ物にならないくらい、濃密な空気が漂っている。 河村が僅かに動く音。 そんなものですら自分はきちんと捉えてしまっていて、自己嫌悪に陥りそうだ。 「亜久津、そこら辺に座っていいよ。・・狭くて悪いな」 「いや・・」 河村に促されて、亜久津は部屋の中央にあるちゃぶ台の傍に腰を下ろした。 部屋が狭いなどということは気にすることのうちにも入らない。 第一、亜久津はよく河村の部屋へやってきってきていたのだから、その広さくらい知っている。 きっと、懸命に会話をしようとしたのだろう、と。 亜久津は内心で僅かに笑みを零した。 亜久津が座ると、河村もちゃぶ台の傍へと腰を下ろした。 丁度、河村と亜久津は向き合うような位置に座ることになった。 カチリ、カチリと時計の音が部屋の中に響く。 別に、緊張するべき要因は何もないはずであるのに、 どうしても感情が高ぶってしまうのは何故なのだろうか。 元々、二人とも好んで会話をするような性格ではない。 だから話が途切れることなど日常のことであるのに、 どうしてか今は話が途切れてしまうことがひどくもどかしかった。 いつもならば話をしていない時でも、その空間に浸っていることで随分と安心をするのだ。 けれども、今は息もできなくなりそうな空間が酷く辛い。 どうしてだろうと考えようとはするが、頭は働かず。 手持ち無沙汰で煙草でも吸おうかと考えたのだが、 ここは河村の部屋なのだということを思ったら自然と手は止まってしまった。 何もすることがなく、いや、何もすることができなく、 部屋の中で河村と二人、ぼんやりと時を過ごす。 目の前の河村は一体何をしているのだろうかと思ってその表情を覗き込んでみると、 河村もやはりどこか落ち着かない様子で自分の部屋のあちこちに視線を向けていた。 そんな河村を見て、亜久津は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。 きっと亜久津も部屋の中に入ってきたときはこんな様子だったのだろうと。 二人でこんな姿をしていたのかと思うと、馬鹿らしくて笑えてくる。 今も河村は困惑したように視線を彷徨わせているのだが、 亜久津はその姿を見て、やはり河村だと思わずにはいられなかった。 こうして素直に感情を行動にあらわしてしまう性格の彼は、 いつでも亜久津にその優しさを向けてくれていたのだ。 河村らしい。 亜久津は目の前の河村を見ながら、ただそう感じた。 微かに笑みを浮かべていると、不意に河村と目が合った。 まるで驚かされたかのように身を震わせた河村は、気まずそうに亜久津から目を逸らす。 河村の全身から、意識してますというオーラが感じられて、 亜久津は再び笑いそうになってしまう。 「あ、亜久津。俺、お茶持ってくるから」 話が続かなかったのだろうか、河村はそう、言い残して。 河村は再び襖を開け、部屋の外へと出ていこうとする。 別に自分は茶など、欲してはいないのに。 「河村」 思わず、引き止めてしまったのは何故だろうか。 「俺は茶なんていらねぇよ」 河村が立つときの空気の流れだとか、この部屋から河村がいなくなった時の熱の変動だとか。 一人部屋に残された自分の姿が頭の中に浮かんだ途端に、河村に声をかけていた。 襖に手をかけた河村は困ったように亜久津を見た。 けれども亜久津が、自分の横を指差し、そこに座るように促すと、河村は再び襖を閉めた。 再度閉じられた空間に何故か安心をしている自分がいた。 河村が律儀にも、元々座っていた場所ではなく、 亜久津が指差したところへ座ろうと亜久津の傍へと近づいてきた。 ゆっくりと畳の上を歩く音を聞きながら、亜久津は近づいてくる河村を見上げた。 そうして河村に向かって手を伸ばす。 河村は不思議そうに首を傾げたが、素直に亜久津の手を取った。 その瞬間。 亜久津は思い切り河村の手を引っ張った。 「うわっ!?」 バランスを崩した河村は、亜久津に引っ張られるままに倒れこむ。 亜久津の上に倒れこんできた河村に押されて、亜久津は床に背をつける格好になる。 その衝撃に耐えるために目を閉じて待っていたが、 予期していた衝撃は訪れず、不思議の思って目を開くと、 亜久津の顔の横に両手をつき、亜久津を守るようにしている河村の姿が目に入った。 「大丈夫、亜久津?」 故意に倒されたのは自分の方であるのに、その非を責めるわけでもなく、 亜久津の心配をしてしまうのが河村なのだと強く思う。 視線を合わされて、けれども亜久津はそのまま合わせ返すこともできず、 僅かに動揺しながらその視線を外す。 「どうってことねぇよ」 ぶっきらぼうにそう呟けば、河村は安心したように肩を下ろした。 「よかった・・」 笑う河村は、ひどく幸せそうで。 亜久津は戸惑ってしまう。 河村は、どうして、他人のことであるのに、こんなに幸せそうに笑ってくれるのだろうかと。 長い間、変わりなく、同じだけの、愛情をもって。 亜久津を包んでくれる。 ただいとおしそうな笑顔を浮かべる河村の表情を見て、亜久津はその首に腕を回す。 ゆっくりと、想いが伝わるようにとできるだけ優しく触れるように努め、 河村に抱きついて、亜久津のもとへと引き寄せた。 「あ、亜久津・・!?」 「・・うるさい」 このまま黙ってろ、と。 ひどく慌てる河村の耳元で言えば、彼は数秒黙ったあと、ゆっくりと亜久津の背に腕を回した。 まるで慈しむように回されるその腕の温かさに、思わず息を吐く。 河村の存在だけを感じられる、ただ一つの世界だった。 「・・お前の、親が」 上手く言葉にならなくて、途切れ途切れに言葉を紡ぐのだけれども、 河村はそれを促すようにゆっくりと背を撫でてくれる。 先ほどまでの、過度に緊張した空間はそこに存在せず、 親しみ馴染んだ空間がそこにあった。 「うん・・」 促す声に続いて、亜久津も言葉を続ける。 「もっと、ぎこちない態度、されるんじゃねぇのかって・・」 そう、思ってた。 続けようとした言葉は声にはならず、河村の肩口でくぐもって消えた。 こんな自分を無条件で愛してくれるのは、 ほんの限られた人間であることに違いはないのだろうが、 それでも予想外に自分を愛してくれる人たちがいることを知るのは、素直に嬉しいことだと思う。 それが、愛する人の両親であれば尚更。 「うちの親父とおふくろは、よく亜久津に会いたいって言ってるよ」 だから連れてきたんだ。 「・・そうか」 その言葉にただ頷いた。 昔から知っていたことを、こういう時に突然思い出す。 河村は自分を傷つけるようなことはしないのだと。 自分が一身にその傷を受けて、何でもないかのように、笑って。 だからきっと、心配する必要など何処にもなかったのだ。 自分も、笑って。 河村の家のドアをくぐればよかったのだ。 河村の優しさを噛みしめながら、抱き締めている腕に力を込めた。 そうして、肩口にいる河村の胸を腕で押し返す。 僅かに離れた身体に、河村は慌てて亜久津の上からどこうとするのだけれども。 亜久津はそれを許さず。 頬に触れ、引き寄せるように口づけを落とした。 ポンと、瞬間的に赤くなる河村に、口の端に笑みを浮かべる。 「え・・!?亜久津・・!」 「驚いてんじゃねぇよ馬鹿」 そう言いながら亜久津は自らのシャツのボタンを外しにかかる。 背には畳の感触。 見上げる天井は子供の頃から変わらず。 この部屋を取り巻いているものは皆、河村の物。 何だか変な気分であった。 「お前・・妹は?」 問いただした事柄はあまりにダイレクトすぎて河村には届かないかもしれないと思ったが。 「・・妹は今日塾で、いないよ」 迷わず返された言葉に、亜久津は不覚にも息を飲む。 気がついたときには首筋にくちづけられていて、自由にならない体が震えた。 「・・じゃあ、この部屋には誰も入ってくる可能性はないんだな・・」 「そうだね」 はっきりと、呟かれた言葉は亜久津の肌に触れて溶けた。 「二人きり、だよ」 襖で仕切られた空間は酷く心許ない気がしたが、それでも、 二人だけしかいないということには変わりなく。 つい数年前までは、ともに手を繋いで眠っていた空間で、 今は二人、愛を語る。 |