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+君と僕とを繋ぐもの





「ただいま」


家に帰りつき、部屋に鞄を置く。

そうして制服を脱ぎ、洋服に着替え、部屋を出て、リビングへと向かう。


その道の途中、周助の部屋の隣には、愛すべき弟の部屋があるのだけれども。

当たり前のことながら、その部屋はひっそりと静まりかえっている。

閉じられたドアからは生活感すらも感じられなかった。


何年も共に暮らしたはずの、弟の姿は今はここにはなく。

この部屋に裕太が暮らしていたということを、忘れてしまいそうになる。


――あまりも、裕太がいない生活に慣れてしまって。



裕太は、ルドルフで生活している時間よりもずっと長く、ここで生活していたはずであるのに。

時というものは記憶を薄れさせ、いつしか。

どんなに日常と思っていた事柄でも、それが非日常と化してしまう。


時というものによって、次第に記憶が薄れゆき、最後には忘れてしまうのならば、

時なんか先に進まなければよいのにと。

短絡的な思考にさえ陥ってしまう。


毎日、毎日。

このドアの前を通るたびに、この部屋の中に裕太がいないことを思い出してしまう。

こんなことじゃ駄目だと思いながらも、けれど感傷的な心を振り切ることができない。

少しでも、ほんの少しでもいい。

この部屋の中で、裕太が笑っていてくれれば、

ここに裕太がいたことを、忘れるかもしれないなんて不安はすぐに消え去るのに。


周助は、一つ溜息をつく。

いつもの溜息よりも僅かに重いその溜息は、

なんだか本当に、幸せを逃がしてしまいそうだった。


「馬鹿・・裕太・・」


弟の部屋のドアに、こつんと額をつけて、愛する弟の名を呼ぶ。

今は、自分の近くにいてくれないのだから、少しの悪口くらい許してほしい。


「・・そんなに、僕の『弟』は嫌だったのかな・・」


裕太が家を出て行き、何度も何度も繰り返した問いを、また呟く。

裕太の想いなんて、裕太にしか分からない。

けれど、どうしても出て行かなくてはならなかったのだろうかと思うたびに、

胸が、苦しくなった。


「裕太のバカ。」


再び同じ言葉を呟いて、目を閉じる。

すると脳裏に、怒ったような裕太の顔が浮かんできて、周助は僅かに笑みを零した。




リビングへと向かうと、なんだか賑やかな話し声が聞こえてきた。

どうやら、姉さんが誰かと電話をしているらしかった。


「それでね・・」


明るい姉さんの声はリビングに響き、もちろん、盗み聞きをしている訳ではないのだけれども、

自然と会話が耳に入ってくる。


「それで?どうしたの?」


周助はキッチンで紅茶を入れながら、由美子の声を聞いていた。

由美子も不二家の血を継いだのか、感情の波が表面上に出ることは滅多に無い。

けれども、今、由美子は明らかに電話の向こうの相手と楽しげに会話をしている。

もちろんそれは家族にしか分からないような変化なのだけれども。

電話の相手はそれほど、親しい人間なのだろう。


不二家の中で、感情の波があまり表に出ないのは、母さんと、姉さんと、自分だ。

裕太は父さんに似て、自分の感情というものをすぐに外に出してしまう。

だからこそ、裕太は物事に対して熱く接することができるのだ。

何にでも一生懸命の裕太の姿を思い返す。

そんなところも好きになったのだと、真っ直ぐな裕太の視線を思い出して、

周助は頬を緩めた。


いい香りを醸し出すカップをリビングに運びながら、周助は再び一つ溜息をついた。


こんなんじゃ、駄目だと思う。

裕太は自分の将来のために家を出ていったというのに。

自分がこんな風にいつまでも引き摺っていたら、

いつか裕太に愛想をつかされてしまうかもしれない。


でも、少しくらいは。

少しくらいはこうして弱音を吐いても、裕太は許してくれるよね。

だってさ。

元気の素が足りないんだもの。

最後に裕太を見てから、どれくらいの時が経ったんだろう。

そろそろ裕太ゲージの残量が少なくなってきて。

無意識のうちに、心が裕太を求めてる。


自分が裕太に会っていないのと同じ時間、裕太は周助に会ってはいないのに。

裕太は平気なのだろうか。

いつもいつも、自分から淋しいと訴えるばかりで。

彼は実は自分なんかいなくても、十分生活していけるのではないだろうか。

そんなことを思ったら、益々心が暗くなった。


なんかもう、駄目かも。

こんなに落ち込み気味なのも、ちょっと下向き加減な思考をしてしまうのも、

全部、裕太がいないせい。


周助は、ふと、電話をしている由美子の方を見た。


もう、駄目。

限界。

だから、由美子姉さんの電話が終わったら、裕太に電話しよう。

そう、思って。


由美子の方に意識を向けたら、こんな会話が周助の耳に飛び込んできた。



「裕太、そっちは・・」



ハッ、と。

目の覚めるような感覚。

きっと命令が脳から伝わる前に、反射的に体が動いていたのだと思う。

由美子に近づいていき、そして一瞬も待てないというように、声をかけた。


「姉さん」


僅かに焦れたような声音に、由美子は静かに笑い、


「今、周助が来たの。代わるわね」


と言って、周助に受話器を手渡した。


「周助にしては、気づくのが遅かったわね」


そんな言葉を言い残して。

由美子はリビングを後にした。


パタリ、と誰もいないリビングに、ドアの閉まる、乾いた音がする。

じわりと、気づかないうちに受話器を握っている手に力が入る。


焦がれるほど裕太の声を聞きたかったはずなのに、

いざこうして声が聞けるというときになって、不思議と体に緊張が走った。

待ち望んでいたものが手に入るという、期待からなのだろうかと。

後から思い返して、そう思った。


「もしもし?」


もしかしたら声は少し、震えていたかもしれなかった。


「ああ・・兄貴」


ぶっきらぼうな声。

けれど裕太は嫌がっているのではなく、電話の向こうで照れているのだろう。

そんな姿が思い浮かんで、周助は口もとに柔らかい笑みを浮かべた。


「裕太・・久し振り」


「ああ・・久し振り」


兄弟なのに、馬鹿みたいに普通の挨拶。

それほど、お互い、どうしていいのか分からないのだ。

久々の裕太の声は、少し大人っぽくなったような気がして、

周助は心が震えるのを止めることができなかった。

じわり、と動く心。

自分の心はいつも、裕太にしか反応を示さなかった。


「それで・・どうしたの?」


電話の用件を、裕太に尋ねる。

あまり人に頼るということをしない裕太が、

こうして家に電話をしてくるのは、ひどく珍しいことであった。


「・・・・・」


裕太は、返事を返さない。


「・・・?」


不思議に思って言葉を続けようとすると、

ぶっきらぼうな、どこか拗ねたような声が周助の耳に届いた。


「・・用がなくちゃ電話しちゃいけねぇのかよ」


「ううん、そんなことない!」


慌てて返すと、裕太は電話の向こうで、少し機嫌を直したようだった。

未だ変わることのない、真っ直ぐな性格と、

昔からの癖に、周助は思わず心があったかくなる。


「ねぇ、裕太」


「あ?」


電話越しでもその声が嬉しい。

もっと聞きたくて、どんなことでもいいから、話をしたかった。


そうして、ふと浮かんだのは。

さっきまでの自分の姿。


「なんか、さ。

今すごく裕太に会いたくて、淋しくて、裕太に電話しようと思ってたところだったんだ」


言うと、電話越しに、僅かに照れるような気配。

裕太に気づかれないように口もとでクスリと笑って。

そうして周助は目を閉じた。

もしかしたら。

もしかしたら。

ただの自惚れなのかもしれないのだけれども。

もしかしたら裕太も。

自分の声を聞きたかったのかもしれないと。

そう思ってしまうのは、やっぱり自惚れなのでしょうか。



「・・もしかして、裕太も淋しかった?」



「ばっ!?そんな訳ねぇだろ!」


勢いよく否定されて、今度は、隠さずに声に出して笑った。


「裕太はそう言うと思ったよ・・」


そう言うと、思ってた。

でも、少し。

悲しい気もするけどね。


僅かに悲哀を含んだように笑ったら、どうやらそれを、裕太は敏感に感じ取ったようだった。

ごめん、裕太。

別に、裕太を責めるために言ったんじゃないんだよ。


そう、言い訳をしようとしたら、それよりも早く、裕太の声が周助の耳に届く。






「・・嘘だよ。俺も淋しかった」







嬉しくて。

嬉しくて嬉しくて。


なんだか受話器を持ったまま、思わず涙が零れた。


「・・泣くな」


「泣いてなんか、ないよ」


ばればれの嘘。

声なんて、かすれてるのに。


「嘘つくなよ」


「嘘なんて、ついてないよ。嬉し泣きだもん」


周助がそう言うと。

裕太は少しの間を置いた後、静かにこう告げた。



「今度・・家に帰るから・・」



だから、泣くな。





馬鹿だね、裕太。

そんなこと、言われたら。

嬉しくて、益々涙が出るよ。