窓の外にはチラチラと。 今年何度目かの雪が空から舞い降りていた。 次第に温まっていく空気と、それに反するように寒さを取り戻そうとする空気。 暖かい日が数日おきにやってくることを感じたときには、 もうその間隔が一日ごとに、狭まってきている。 こんな雪の降った次の日には、もう。 暖かな日差しが大地に降りそそぐのであろう。 近づきつつある春の足音を遠くに聞く。 きっとこれが、今期最後の雪になるに違いないと。 授業中に、窓の外、ふわりふわりと降る雪を見ながら、裕太はぼんやりとそう思った。 +凍える空に、女神の歌 春もすぐそこまで近づいた、2月の半ば。 聖ルドルフでも世代交代が行われ。 現3年が引退する際の引継ぎで、次の部長は裕太と決まった。 そして、今部活を統率しているのは、裕太自身である。 セレクションでやってきた人間たちや、引き抜きでやってきた人間たちを纏めていくのは、 案外難しく。 慣れないことの毎日に、疲れてしまうこともしばしばだ。 しかし自分が弱音を吐くわけにもいかず。 次の大会で聖ルドルフが勝ち進んでいくために。 何が必要なのか、そして何をしていかなければいけないのかを、 ずっと考えている毎日だった。 裕太は窓の外の雪の状況を見る。 すぐに止みそうにはなく、また天気予報でもこの雪は降り続くと言っていた。 これではテニスコートなど使うことができない。 この授業が終わったら、部活黒板に本日の練習は中止と書いてこなくてはならないだろう。 聖ルドルフには豪華なことに室内練習場が完備されている。 しかし通常の部活時間帯には他の部活が使っており、 テニス部が使うことができるのは、夕食後の自由時間だけなのである。 2月の半ば。 もうそろそろ冬の終わりも告げる時期に。 離別を悲しむかのように降った雪が与えてくれた、 つかの間の休息もたまにはいいかもしれないと。 灰色の空から落ちる真っ白な雪を眺めた。 授業が終わり、部屋へと戻る。 ルドルフは完全個室制であるので、部屋に帰っても人などいない。 薄暗い部屋に戻った裕太は、しかし電気をつけることもなく、コートをベッドへと投げ出す。 あの白い雪を見た後で、作り物の蛍光灯のやけに白い光を見ることを、 無意識的に嫌がったのかもしれない。 裕太は制服の上着をハンガーに掛け、ネクタイを緩める。 ここではもちろん、裕太の世話を焼いてくれるものはどこにもおらず。 全て自分で物事をこなさなくてはならないのだが、それももう慣れてしまった。 裕太はふと机に置いたままであった携帯電話を手にした。 部活内で重要連絡ができた時に使うのが常になっているこの携帯電話なのだが、 今日は生憎部屋に忘れていってしまったのだ。 金田がどうやら急な用事を裕太にメールしてきたようであるのだが、 結局裕太は携帯を持っていなかったため、その連絡が伝わっておらず。 走りながら金田が裕太の教室にやってきたのが昼休みのことだった。 裕太は画面を見、メールを確認する。 新規メールは2件。 1つは金田のものとして、あと1つは・・。 不思議に思って裕太がアドレスを見れば、 それはもうとっくに見慣れてしまっているものであった。 「何だ、兄貴か・・」 自然に顔が綻んでいることには気づかず。 裕太は金田のは後回しに、兄から来ているメールを開いた。 毎日、欠かさずに、たくさんのメールを送ってくる周助に、呆れざるをえないときもある。 けれどどんなにくだらないメールにもちゃんと目を通し、返信してしまうのは。 やはり愛情のなせる技なのだと思わずにはいられない。 今日は一体何のメールだろうと、本文を読む。 短いそれは、いつもの明るいメールとは違い。 裕太はそれを読み、しばらくの間動くことができなかった。 しかし、そのメールは確かに兄からのもので。 悪戯メールではないことは確かなのだけれども。 思わず目を疑ってしまうその本文に、裕太はもう一度読み返した。 『校門の外で待ってる』 メールの到着時間は、14:37分。 ちょうど裕太の授業が終わる頃を見計らって、メールをしてきたようだ。 しかし。 裕太は携帯のデジタル時計の表示を眺める。 時はすでに16時を指しており。 先ほどから1時間半以上経ってしまっている。 授業が終わっても、部長の裕太がそんなに暇なはずはなく。 珍しく休みである日に、諸々の雑用が回ってくることなど日常の出来事なのだ。 思わず窓の外を見れば、降り続く雪の影。 この雪の中、周助は。 ずっと裕太のことを、待っていてくれているのだろうか。 裕太はベッドの上に放り投げたコートを掴むと、勢いよく部屋を飛び出した。 テニス部の部長が廊下を駆け抜ける姿を、他の寮生たちは奇異な目で見ただろうが、 そんなことは構わなかった。 ただこの寒い中、周助が1人で自分のことを待っているのだと思ったら、 走らずにはいられなかったのだ。 寮の玄関を通り抜け、外へと飛び出し校門へと向かう。 傘もささずに、降りゆく雪の中、僅かに積もった真っ白な雪を蹴散らしながら走った。 普段であれば、白い雪に自分の足跡がついてしまうことに躊躇いを覚えるのだが、 自分の足元にまで、意識を向ける暇などなかった。 視界に捉えた門の向こう。 この先に周助が待っているのだから。 裕太は、門を抜けると左右を見渡した。 するとそこには、周助が。 愛すべき兄の姿があった。 「兄貴!」 呼びかけて近づいていけば、俯いていた顔が裕太に向けられる。 その顔は雪よりも白く。 だけれども、ひどく幸せそうな笑みを湛えていた。 「裕太・・」 傍に近づき、裕太はすぐに周助の頬に触れた。 その温度は雪にも近く。 裕太は眉を顰めざるを得なかった。 「こんなに冷たくなってんじゃねぇか! どうしてもっと暖かいところで待ってるとかしないんだよ!」 強い口調で問い詰めるのは、自分にも不甲斐なさを感じているからだ。 もし、自分が携帯を忘れなければ。 もし、もう少しでも早く帰ってきていたのならば。 後悔ばかりが頭を回り、酷く裕太を苦しめる。 「だって・・」 頬に触れる裕太の手に、自分の手を重ねながら周助は微笑んだ。 「ここで待ってた方が一番早く裕太に会えると思って」 裕太の手に触れる、周助の指先も凍えるようで。 少しだけでも彼を温められるのであれば、と。 裕太は周助の頬から手を離し、その指先を温めるように包んだ。 「・・待たせて悪かったな」 素直に謝れば、驚いたような周助の顔。 「ううん。僕の方こそ裕太の予定も聞かずに押しかけてきたのに。 今、裕太は一番大変な時なのにね・・」 周助は僅かに視線を下げる。 裕太より、1年先を歩いている周助は。 去年、青学テニス部という大きな部活の上に立っていた人間だ。 だからこそ、彼なりの苦労を知っているのだろうし、また、 周助の友人たちの苦労も見てきているのだろう。 辛そうに伏せられた瞼が痛々しく。 裕太は周助の手を握る力を僅かに強めた。 すると周助も、きゅっと、握り返してくる。 「・・本当は邪魔しちゃいけないと思ったんだけど」 紡がれる言葉は、融けゆく雪の如くに儚く。 消え入りそうな声に、裕太は思わず周助に口づけていた。 ここは公道で、誰に見られるかもしれなかったのだけれども。 灰色の重い雲に紛れ、雪に紛れ。 このまま何も見えなくなってしまえばいいと。 そう、思った。 舌先で下唇に触れれば、周助が僅かに震える。 色を失った唇に、熱が戻ればいいと。 それだけを思いながら、慈しむように深く口付ける。 周助は裕太からの熱を拒もうとはせず。 与えられる熱に、甘えるように瞼を閉じ、裕太から施される熱を受け取った。 上がってくる息を、震える周助の体を感じ、裕太は唇を離す。 周助の頬に僅かに赤みが差すのを見て、裕太は僅かに肩を落とす。 「・・どうして突然会いに来ようなんて思ったんだ?」 唐突な周助の訪問は、今まで数えるほどしかなく。 その用件がひどく重要なものばかりであったから、 今度は何があったのだろうと不安を隠し切れない。 しかしその問いに驚いたのは周助の方で。 「・・え?」 周助は目を瞠って裕太を見たまま、僅かに首を捻った。 そんな周助に、裕太は何か約束をしていただろうかと記憶の糸を手繰る。 しかし周助と会う約束をした覚えはなく。 裕太はただ視線を合わせ、周助からの答えを待った。 「・・うん、そっか」 しばし考え込んでいた周助が、発した言葉は、ひどく短く。 「1人で納得してないで教えろよ」 問えば、繋いでいない方の手で、周助は裕太の頭に触れる。 「忙しかったんだね・・」 答えにもないっていない言葉を紡いだ周助は、そのまま裕太の髪を優しく撫でる。 子供のときのように頭を撫でられ、子供扱いするなと怒りたくもなったが、 周助のしたいままにさせておいた。 結局、いつまで経っても、自分は周助の弟であるのだから。 「何時間でも待つつもりだったんだ。 裕太に会えるまで・・」 撫でていた手で、今度は周助が裕太の頬に触れ。 視線を合わせ、周助は心底幸せそうな笑顔で微笑む。 あの時メールに気づいてよかったと、裕太は心底そう思った。 もしあのメールに気づかなければ、 周助はずっとこの寒空の下、自分を待ってくれていたのだろう。 「あのね、裕太・・」 周助は裕太の頬から手を離し、肩にかけていた鞄の中をそっと探る。 取り出したのは、真っ赤なマフラーだった。 「これ、プレゼント。 ・・裕太今日誕生日でしょう?」 言われた言葉にやっと気づく。 最近忙しくて、今日の日付など気にする暇もなかったが。 そういえば今日は、紛れもなく自分の誕生日だった。 差し出されたプレゼントに、裕太は周助の瞳を見つめる。 「兄貴・・」 マフラーを受け取ろうとすると、周助がその手を押さえる。 何をするのかと思えば、周助はそのまま裕太の首にマフラーをまいてくれた。 触れる感触は暖かく。 周助の想いが伝わってくるようだった。 「有難う」 笑って、素直にそう言えば、周助も嬉しそうに笑みを返してくれる。 「喜んでもらえて嬉しいよ」 周助は、わざわざ裕太のために。 プレゼントを渡すためだけに、ここでずっと待ってくれていたのだろうかと。 思ったら、ただただ愛しく。 雪の中、寒さに震えながらじっと自分を待ってくれていた周助に。 湧き上がる想いは衝動にも似たものだった。 裕太は目の前の周助を腕の中に抱き寄せ、逃れられないように抱き締める。 腕の中の周助は僅かに驚いたような顔をしたけれども、 それでもすぐに嬉しそうに裕太の背に腕を回した。 周助に、何かを返してやりたかった。 想いも、プレゼントも。 彼が自分に与えてくれた温かい全てのものが。 優しいこの兄に返してあげることができたらどんなによいかと。 裕太は抱き締めていた腕を解くと、巻いていたマフラーに手を伸ばす。 マフラーの端の毛糸を1本抜いた。 何をするのだろうと不思議そうに見ている周助に、ただ笑顔を返して。 少しだけ熱の戻ってきた周助の左手を取り、 そうして。 左の薬指にそれを巻きつけた。 「・・こんなことしかしてやれねえけど・・」 結び終わり、周助の顔の高さまで上げた左手の薬指に、触れるだけのキスを施す。 「いつでも」 周助の顔が泣きそうに歪む。 「周助のこと想ってるから」 そう、告げれば。 周助の潤んだ瞳から、一筋の涙が流れた。 裕太はそんな周助を守るように抱き締めてやる。 「裕太・・」 呼ぶ声は掠れ。 周助の腕はきつく裕太の体に回される。 最近。 周助の涙を見ることが多い。 泣かせてしまうことしかできない、自分の力に焦れて、 裕太はただ強く。 できる限りの力で周助を抱き締めてやった。 周助が幸せであればそれでいいと。 「・・本当は・・ずっと・・ずっと裕太に会いたかったんだけど・・」 掠れる声が、その想いの強さを物語る。 「・・裕太は・・部長になって忙しそうで・・。 邪魔しちゃいけないって思ってたら・・ずっと会えなくて・・」 「ごめん・・ごめんな」 涙を流す周助の背を、裕太は必死で抱き締める。 「強く、なるから」 それは、心からの、言葉。 愛する人を、守れるように。 この腕で。 傷つけるものの全てから守り。 暖かな想いを与えられる、ように。 強く願った14の、晩冬。 |