恋なんて盲目で。

愛なんて理屈じゃない。










遠い、昔。

少し年の離れた姉さんが、ビデオを借りてきた。

それはどこにでもあるような、ありふれた恋愛映画で。

主人公とヒロインは、スクリーンの中で甘い甘い、恋をしていた。

その時はまだ、小さすぎて彼らの恋愛感情など全く分かりはしなかったのだけれども。

今なら理解することができる。

スクリーンの中で、どうして彼らが狂おしいほどの恋をしていたのか。

そしてそれを見て、どうして姉さんが感動の涙を零していたのか。

全て、理解することができる。



まだ子供だけれども、子供だからこそ、感じる、想いの丈。





LOVE MONSTER






『裕太』


電話越しに聞こえる声。

もうどれくらい、会っていないのだろうか。

手に触れる携帯電話はただ冷たいばかりで。

何処に指を這わせても、愛しい人の熱を得ることなどできない。

電話越しに聞こえる声は、僅かにくぐもっているようで。

周助特有の、耳の奥に優しく触れるような声は、聞くことができない。


『もう夏休みも半ばになったのに、まだ帰ってこられないの?』


言葉の節々に、隠そうとしていて隠し切れない周助の、感情が見え隠れしている。

昔から周助は自分の感情を隠すのが得意であった。

いつも変わらない笑顔を表面に貼り付け、何があっても感情を表に出さない。

けれども最近、どこかから綻びた僅かな隙間から周助の感情が見え隠れすることがある。

何があったのだろうかと、心配しない訳ではない。

しかし、いつも感情を押し殺した態度で周りに接する周助よりも、ずっとずっと人間らしいと。

裕太は僅かに綻び出した周助の感情に、素直に喜ぶことにした。


「部活が忙しいんだよ・・」


『また部活部活って・・!!』


微妙な声の高ぶり。

けれども周助は一度だって裕太のテニスに口出しをしたことはなかった。

青学に入るときも、結局はテニス部に入らずにスクールに通い始めたときも、

そしてルドルフに転入を決めたときも。

他の事であったのならばいくらでも口を出してくる周助は、

テニスのことになるとほとんど口をきかなかった。

だからこそ、周助が何を思っているのかは全く分からなかった。

無関心であるのか、わざと周助が何も言わないようにしているのか。

常にあまり表情には感情を出さない人間が、言葉すら使わなくなったのならば、

一体どうやってその感情を読み取ることができるというのだろうか。

だから、裕太はルドルフへ行く日に、周助に尋ねたのだ。

お前はどう思っているのかと。

すると周助は少しだけ淋しそうに笑い、


裕太がよければそれでいいんだ。


と。

ただそれだけ口にしてみせたのだ。

それからは、何も聞かなかった。

聞かなくても、分かるような気がしたのだ。



「悪い・・」


あの時の、淋しそうな周助の顔が思い浮かんで。

裕太は思わず謝罪の言葉を口にした。

こうして会話をしている向こうで、周助はどんな表情をしているのだろうか。


『・・裕太』


周助の声のトーンがひとつ下がる。

泣いているのだろうかと、裕太は思わず携帯電話を強く握った。


『・・会いたいんだ』


搾り出されたような周助の言葉に、思わず鼓動が高鳴った。


自分も。

会いたくないなどということはない。

長い間顔も見ていない周助に、会いたくて仕方がない。


『・・そろそろ、裕太が足りなくて死んじゃいそうだよ』


素直にそう言葉にした周助の心情など、考えなくても分かる。

だって自分も、同じ感情を抱いているのだから。

裕太は思わず、手にしていた携帯電話を強く握る。


自分は簡単に、会いたい、だなんて口にすることはできないのだけれども。

それでも、じりじりと焦げ付くような心にそんな余裕はなかった。

心も、体も一つ残らず周助を求めている。


「・・明日」


気がついたら思わず言葉を紡いでいた。


「明日、練習ないからさ。一日だけだけど、帰る・・」


そう、口にしてしまったのは、自分も相当周助が足りていないと気がついたから。

無意識のうちに言葉にしてしまうくらい、きっと自分も周助に飢えてる。


『!裕太!』


電話越しに、周助の喜ぶ声が聞こえる。

その嬉しそうな声音に、裕太も思わず顔が綻ぶ。

こんなにやけた顔を、部員たちに見られたら何と言われるか分からないだろう。

しかし幸いなことにここは裕太の部屋。

この部屋には裕太しかいないのだ。


『明日・・楽しみに待ってるから』


念を押すような周助の言葉に、裕太は頷く。


「分かってる」


明日の、10時頃。

そう時間を告げ、短い挨拶を交わして電話を切った。

ツーツーと、短い電子音が響き。

電話が途切れた後も、しばらくその携帯電話を見つめていた。

回線が切れたその後も、まだ周助の声が耳の奥に残っている。



『明日・・楽しみに待ってるから』



そう紡いだ周助の声は、少し震えてはいなかっただろうか。



外は快晴。

明日もきっと暑くなる。





小さな鞄を持って寮から出る。

日差しはやはり強く、今日も快晴。

雲ひとつない空が広がっていた。

手を翳し、その青い空を見上げる。

温度上昇を促すその太陽からの熱と、全てを照らし出す光に、裕太は一度目を閉じ。

そうして前へと歩きだす。

アスファルトは既に熱し始められていて、今日も昨日と寸分違わず暑くなるのだろうと。

本能的に感じた。



不意に、携帯電話がポケットの中で震えだす。

それに気づいてポケットの中を探り、携帯電話を取り出す。

ディスプレイに浮かぶメール着信の表示を見、誰からだろうと宛名を見れば、


『周助』


と。

文字が浮かんでいる。

一瞬、その文字に目が奪われて。

けれどもすぐにメールを開封するためにボタンを押した。


『裕太へ』


自分にメールを送っているはずなのに、きちんと件名に宛名を書くのは周助の癖。

ひどく彼らしいと感じるのは、

もう13年間ずっと彼とともに過ごしてきた自分だからこそ言えるのだろうか。


『駅で待ってるから』


たった一言。

短いそれは、けれども裕太にはひどく効果的であった。

駅で、待っていると。

周助はメールをくれた。

確かに裕太は10時頃家に着くとは言ったが、乗る電車の正確な時間を伝えた訳ではない。

だから、10時よりも早く家に着いてしまうかもしれないし、

10時よりも随分と遅く家に着いてしまうかもしれない。

そんなこと、分からないのに。

裕太は再びその文字を見つめ、

返信メールに短く4文字だけを打ち込んで周助の元に送信をした。

そして携帯を元のポケットのところに仕舞い、そのまま。

駅へ向って走り出した。

こんなメールを送ってきたということは。

周助はもう、地元の駅で裕太を待っているに違いないと確信をしたから。

この炎天下の空の下、周助は朝早くから駅へ向かい。

流れる人の波と、ホームに滑り込んでくる電車の音を聞きながら、きっと。

駅で待っているのだろう。


裕太はふと腕時計を見る。

両の針はまだ8時半を指しており、

このまま急げば、8時40分の急行に乗って、8時59分に普通に乗り換え。

そして、9時7分には駅に着く計算だ。

裕太はそんなことを頭の中で弾き出すと、駅へと向う足を更に早めた。


今日も、暑い。

きっと駅に着く頃には、シャツなんて汗で張り付いてしまっているのだろう。


それでも。

走らずにはいられなかった。



『すぐ行く』



・・すぐに行くからそこで大人しく待ってろ。






駅で切符を買い、滑り込むように急行電車に飛び乗った。

そこで一つ溜息をつき、それでも安心などできず、

あまりに進まない時間に苦痛を募らせながらも、

腕時計を睨んでその時間が過ぎるのを待つ。

電車は幸いなことに遅れはせず、定刻通りに普通電車との接続を行う。

裕太は向かいのホームに停車中の各駅停車に乗り込み、

そうして腰を下ろしてまた一つ溜息をつく。


落ち着かないのは、鼓動がいつもよりも早く鳴っているから。

その原因はもちろん、周助にある。

きっと今周助は一人、駅の改札口で裕太を待っているのだろう。

片手には携帯電話を握り締めながら、駅の時計を眺め、

電車が到着するたびに、降りてくる乗客の中から裕太を、探しているのだろう。

そんな光景が容易に頭に浮かび、裕太は口の端を噛みしめる。

周助は、きっと。

笑いながら、

『裕太を待っている時間も楽しいんだよ』

と言うに違いない。

けれど。

彼は裕太を待っているときの自分の表情を見たことがあるのだろうか。

それは楽しんでいるという表現とはほど遠い、物悲しそうな、

何かを耐えているような表情なのだ。

周助は裕太を見ればそんな表情など、全くしない。

けれど、周助が裕太を見つけるまでのほんの僅かな間。

見たことのないような表情をしている周助の姿を見ては、

裕太はいつもひどく心が痛むのだった。

早く、周助の元へ行ってやりたい。

あんな悲しそうな顔をさせるのは、どうしても嫌だから。

自分がいない場所で、あんな。

辛い何かを耐えるような、押し殺した表情をしないでほしい。



裕太は窓の外を見つめ、見慣れてきた景色に僅かに安堵の溜息を零す。

もう少しだ。

周助にあんな顔をさせてしまうのも、もう少し。


次は青春台、という車掌のアナウンスに裕太は立ち上がる。

少しでも早く、降りるために早めにドアへと近づいて。

いつもよりも随分と遅く感じる列車の速度に焦れながら、

電車が止まった瞬間のホームに飛び出した。



近くの階段を駆け上がる。

そうして改札口の方を見渡せば、そこにはやはり周助の姿。

まだ裕太の姿を見つけてはいないのか、やはりどこか淋しそうな顔で辺りを見回している。

朝の混雑した駅では、そうたやすく人を見つけることなどできない。

裕太は、周助の表情を見るなり、駅の中を駆け出していた。

行き先はもちろん、周助のところへ。

切符をもどかしく思いながらも自動改札へと通す。


すると、やっと裕太の姿を見つけたのだろう。

周助と目が合った。

彼は。

まるで、真夏の空の下に、花が咲かんばかりの笑顔で。

綺麗に微笑んだのだ。


それを見て、裕太はひどく安堵する。

やっと周助を、笑わせることができたのだと。


改札を出る裕太に、周助が駆け寄ってくる。

手にはやはり、携帯電話。

どれくらい長いことここで待っていてくれたのだろうと、裕太は胸が痛くなる。

けれども、そんなことを感じさせないような笑顔で、周助は裕太に抱きついてくる。


「・・裕太!」


ぎゅっと、抱き締められた裕太は、

けれども周助を邪険に払いのけるなどということはできなかった。

朝の混雑をする駅の中、

一体自分たちは公衆の面前で何をしているのだろうとは思うのだけれども。

抱きついてきた周助が、親鳥を見つけた雛のような表情を浮かべているのを見て、

抱き締め返さずにはいられなかった。

行き場を探していた手が、ゆっくりと周助の背を撫でる。

すると僅かに周助の身体が震えた。

線の細い兄の身体が、更に小さく見える。

むせ返りそうな暑さの中、けれど体温の低い周助の肌が心地よかった。


「どれくらいここで待ってたんだよ」


「ううん、・・全然、待ってなんかいなかったよ」


静かに嘘をつく兄の。

声は僅かに掠れていた。



「・・嘘つけ」



「・・うん、嘘」



周助は、小さく笑った。



「だって裕太、ずっと帰ってきてくれなかったんだもん。

 もう、気が遠くなるほど。

 待ってたよ。

 飢えて、乾いちゃいそうなくらい」



赤いその唇から吐き出される言葉はこの空にも負けないほどの熱を有していて、

心へ直へ伝わってくるその熱さに、

普段はあまり自分のことを口にしない周助の隠せなかった本音が見えたような気がした。



「・・ごめんな」



ただ、謝ることしかできずに、裕太は周助の顔を覗き込む。

重なった視線の奥、周助の瞳は謝罪など要らないと語ってる。



望むことはただ一つ。

それを裕太もよく分かっていた。



「・・家、行くぞ」



朝の雑踏の中、抱き合う二人に誰も興味を払うことのない忙しい空間の中で、

裕太は掻き消されそうな声でそう伝えた。

けれども周助はちゃんとその言葉を聴き取り、花でも浮かべそうな表情で綺麗に、笑った。







家までの道を二人で歩く。

夏の太陽は容赦なく道を、二人を照らすのだけれども、

お互いが、お互いの熱が、ただ、熱くて。

そんな自然からもたらされる白く眩しい光など気にもならなかった。

感覚は全てお互いのために向けられたものであり、その他の自分たちに関るものの全て、

不必要なものとして取り払ってしまいたいくらいだ。



家の近く、人通りの少なくなった道で、周助は不意に裕太に手を差し伸べてきた。

周助の右手が裕太の左手に触れ、そうして軽く握られる。

裕太は思わず周助の顔を見たのだが、

ひどく嬉しそうにしているその表情を見たら、何も言うことなどできなかった。

誰も人が通っていないからいいだろうと、心の中で適当な理由をつけた。

太陽の日差しが降り注ぐ道を、2人。

アスファルトを照り返す熱は酷く蒸し暑いはずであるのに、

そんなもの気にならないほど掌から伝わる互いの熱が恋しかった。

僅かに汗ばむお互いの手を、それでも決して離さないというように強く握りしめる。

まるでどちらかがいなくなれば死んでしまうかのように、しっかりと。


「・・ねぇ、裕太」


不意に周助の声が裕太の耳に届く。

その声は酷く緩慢でけれどもまるで盛夏に誘う花々のように艶やかだった。

周助に視線を移すと彼は微笑を湛え、

けれども抑え切れない想いがその瞳から零れ落ちてきそうである。

その蕩かされた瞳のような声音で、周助は裕太に囁く。


「今日、母さんも姉さんもいないんだ」


しっかりと握られたお互いの手と。

裕太を甘く包む周助の声。

そして。

目の前にあと数メートルと迫った家の扉に、

もう自分が逃げ出す理由は何処にもないのだと悟った。


周助の綺麗な指が鍵を開ける。

かちゃり、と響いた小さな音は、自分の家ではない他の何処か、そう、まるで。

誰もいない、二人だけの世界に飛び込むような感覚。

どうしようもない既視感が襲う。

鍵を開けた周助は、裕太にドアを開けるように促した。

これで自分も共犯になるのだと言われたような気がしたが、逆らう理由など何処にもなかった。

玄関へと入るとそこは夏の昼間には似つかわしくない、ひんやりとした空気が漂っていた。

きっと周助が出かける前にエアコンのタイマーを入れておいたのだろう。

パタリ、と、後方でドアの閉まる音。

本当に、今この世界にいるのは2人だけ。


2人だけになったのだ。


「お帰り、裕太」


周助がにっこりと笑う。

そう、とても幸せそうに。

それを視界に捉えた途端、言いようのない感情が裕太を捕らえ。

そして。

気がついたら、周助に深く口づけていた。


夏の暑さなど、目にならないくらい熱く。

機械で作られた紛い物の冷気など意味をなさないくらい深く。

周助を捉えた。


口づけている間にうっすらと目を開き周助を見れば、周助も酷く嬉しそうに裕太を見ていた。

おかしいくらいの息遣いと、熱に理性さえ飛びそうになる。

周助を抱き締める腕は次第に強くなっていき、周助の腕も裕太の背に回される。


周助の腕は裕太の背を伝い、いとおしげに頭を撫でた後、その綺麗な手で頬に触れる。


「裕太」


甘く囁く声は夏の蜜の中に溶けた。










「早く抱いて?裕太・・」











恋なんて盲目で。

愛なんて理屈じゃない。



今日もきっと、暑くなる。