愛する部員たちへ。 心からの休息を。 +大切なもの 真っ青な空に手を翳す。 嫌味ったらしいほどの清清しさは、少々滅入ったこの気持ちに不釣合いだ、なんて思いながら、 不二は珍しく午前中の授業を抜け出して、屋上の真っ白い柵に寄りかかるように腰掛けていた。 足を投げ出して、柵に寄りかかり、青い空を見上げる。 雲一つない空は夏への気配を感じさせ、降り注ぐ太陽はこれから訪れる暑さを想像させた。 僅かに開いたワイシャツの首筋に吹き込む風は心地よく、暖かな光の中、 眠りともまどろみともつかない休息を貪る。 思いのほか、疲れていたらしい。 普段は絶対にしない、授業を抜け出して屋上で一休み、などということをして。 狭い教室、小さな机、まるで捕らわれているかのようなあの空間にいるのが嫌で。 窓から見上げた青い空がとてもとても気持ちよさそうだったから、広い空の下へエスケープした。 きっと英二が今頃心配している、とは思ったけれども、まどろみに落ちた体は既に動かず、 この柔らかな空気の中でしばしの幸せに浸ることにした。 ふわり、ふわりと柔らかな空気に浮かぶような気分の中、 不二は遠くから、屋上のコンクリートを叩くような低い音がしたことに気がつく。 瞳を開かなくとも、その音が何の音で、誰が鳴らしたものかも分かっていたが、 このまま寝たふりをしていたらきっと彼が困るだろうと思ったので、 意地悪はせずに不二はゆっくりと瞼を開く。 「ごめん、起こしちゃったか」 なんて、近づいてきた足音が止まり、声を上げた人物が申し訳なさそうな苦笑いを浮かべる。 「ううん、眠ってなかったし」 座っている不二からは、立っている乾の顔を見るのが随分と苦労することだった。 首をいっぱい上に向けていると、それに気づいたのか乾が不二の隣に腰を下ろした。 「珍しいな、不二が授業をサボるなんて」 乾の手にはおきまりのデータノート。 光の降り注ぐ下でデータ整理はやりにくいんじゃないかと思うけれども、 乾は別段ノートを開きだす、ということはなく、コンクリートの上にそれを置き、 不二の方を見つめてきた。 それに気がついて不二は一つ笑みを浮かべる。 「そうだね、珍しいかもしれない・・」 答えれば乾は手にしていたデータノートで軽く不二の頭を叩く。 優しさの含んだそれに笑い返して、そしてお返しとばかりに隣に座る乾の肩に頭を乗せた。 そうして思いっきり体重をかけてやる。 けれども乾はただ笑って返すだけで、反対に軽く頭を撫でられた。 子供扱いされているようだ。 そのまま上体を乾に預けながら、不二は再び抜けるような青い空を見上げる。 透明感のある青は珍しく、その空に吸い込まれていきそうだった。 「お疲れ?」 「うん、お疲れ」 ここまで来て取り繕う必要もないかと、素直に本心を吐露してみる。 隠そうとしていた訳ではないけれども、みんなが頑張っているときに、 疲れているのだと口にすることは何故だか躊躇われた。 特に自分が。 自分が周りに、疲れていると悟られることは、とてもしてはならないことのように思えたのだ。 でも気づかれてしまっては、隠す必要も無いだろうと、さらりと言葉を口にする。 気づかれた相手が乾だったから別にいいやと思ったことも理由のうちの一つだ。 「・・悪いな」 突然乾がそんな言葉を口にしたので、不二は驚いて目を瞠った。 「何で乾がそんなこと言うの?」 自分が疲れているだけで、他の部員たちが頑張っていないなどということは不二も思っていない。 だからこそ謝られる理由はどこにもないのに、謝罪の言葉を口にした乾の意図が分からなかった。 「俺がお前と同じくらいに強かったなら、な」 苦笑いに乗せられて告げられたのはそんな言葉で。 申し訳ないという思いが詰まったそれに、不二は僅かに口を尖らせた。 「僕は乾に負けたくないから、強くならなくていいよ」 そう告げたら乾はまた軽く笑ってみせた。 乾が心を痛める理由なんて何処にもないから、部員たちが心を痛める理由なんて何処にもないから、 愛するみんなには、誰一人残らず全員に笑っていてほしいと思う。 自分の心配をしてくれるのは有り難い。 けれども心配をして心を痛めるよりも、こうして隣で笑って、 一時の休みに肩を預けられる場所を提供してくれるだけで、自分は本当に幸せなのだ。 「・・手塚がね、心配してたよ」 乾の口から出てくるのは珍しくもなんともない、彼の思い人の名前が聴覚に響く。 その言葉の意味に気がついて、不二はまた口を尖らせる。 「あーもうバカップル!人の心配なんてする前に自分たちの心配しなよ」 自分よりも青学を愛する、青学の部員たちを愛する部長は今九州にいる。 そういえばこの前手塚と電話をしたのだけれども、きっとその時に気づかれたに違いない。 自分のことには滅法疎いくせに人の、特に部員たちのことになると、 普段とは比べ物にならないくらいの気遣いを発揮する彼は、 きっと不二の異変に気がついて、今隣にいる彼に不安を告げたのだろう。 だからこそ乾はきっと、今不二の隣にいるのだ。 くすぐったいほど優しい、気づかないうちに包んでくれる、だからこそ信頼できる親友たち。 彼らと不二は昔、青学三強と言われ、共に戦ってきた。 だからだろうか、理由はよく分からないのだけれども彼らの隣はひどく心地よい。 いつもの調子の不二に満足したのか乾は小さく笑みを零して、 そうして突然不二の髪の毛をわざと乱すかのように思いっきり頭を撫でた。 「え、わっ・・!もーーー馬鹿乾!!」 突然の出来事に対応しきれず、乾の手を慌てて押さえながら、悪態をつく。 でもそれが愛情表現だと知っているから、二人で目を合わせて盛大に笑った。 「いい子の不二にプレゼント3つ」 突然、乾がそんなことを言うので目を丸くした。 「プレゼント・・?」 不二が聞き返すか聞き返さないかのうちに、突然ポケットに入れていた携帯電話が鳴り始めた。 取ってごらん、と乾に促されるがままに携帯電話を開くと、そこには乾からのメール。 件名は、プレゼント。 何かと思い開いてみると、そこには――。 「・・裕太!」 思わず目を輝かせて携帯電話を覗き込んでしまった。 そこにあったのは愛しい弟の写真で。 滅多に見せない、生き生きとした笑顔でラケットを持ちコートに立っている姿だった。 「昨日丁度偵察の帰りにルドルフに寄ってね。 悪いとは思ったんだけど、撮らせてもらったよ」 そう言うと乾はがさがさと自分の携帯電話を取り出し、そうして不二の前に翳した。 「見てごらん」 言われて乾の携帯電話を覗くと、乾がスタートボタンを押す。 撮られていたのは裕太の動画で、ルドルフのユニフォームを着た裕太がそこに映っている。 『乾さん、こんにちは。 ・・えっ?兄貴へ一言? 言わなきゃ駄目っすか? ・・えーっと、 無理すんなよ ・・こ、これでいいっすか?』 「この画像は後で送るよ」 不二の視線は画面に釘付けのままで、乾からかけられた言葉にただ頷くだけだった。 あの裕太が。 先輩の頼みとはいえこんなことをしてくれるなんて。 驚きと喜びでいっぱいで、僅かに目元が熱くなる。 「そして不二に、最後のプレゼント」 そうして、手にしていた乾の携帯電話が突然着信を知らせる振動を始める。 一体何が起きたのかにわかには信じられず、けれども乾の促す声に後押しされるように、 不二は通話ボタンを押した。 「・・もしもし?」 突然の展開についていけず、頭の中は真っ白だ。 「・・兄貴?」 聞こえてきたのは望んでいた人の声で、携帯を持つ手が僅かに震えた。 「久し振り」 そんな声に不二は電話の側で頷くことしかできなかった。 声も出すことができない。 「なんか・・乾さんに電話してやってって言われて電話したんだけど・・」 僅かに照れたような裕太の声。 でも嫌々電話をしてくれているようではなく、その事に不二は僅かに安心する。 「・・裕太、授業は?」 搾り出すことができた声は、そんな言葉しか紡ぐことができなかった。 「俺は今休み時間だよ。兄貴は?」 「僕も・・休み時間だよ」 「嘘つけ」 裕太に不二の言葉を一蹴されてしまった。 「・・ごめん」 電話の側で項垂れる雰囲気の不二に気がついたのか、裕太は一つ溜息をつく。 「・・辛いなら辛いって何で言わないんだよ」 僅かに苛ついたような声に、けれども計り知れない愛を感じる。 「・・ごめんね」 「それしか言えないのかよ」 再び怒られて、同じように携帯の側で項垂れる。 こうして裕太とこんなやりとりをするのも、どれくらい久し振りなのだろう。 裕太と会っていなかった、だからこそ辛いなんて言えなかった。 辛いのは自分だけではない、裕太も頑張っているんだ、 だからこそ自分が弱音を吐くわけにはいかない。 そんな思いが胸を占めて、誰にも辛いだなんて言うことができなかった。 「・・悪い」 黙り込んでしまった雰囲気に気づいたのか、裕太は突然すまなそうに声を紡いだ。 「俺が・・気づいてやればよかったんだよな」 優しい裕太は、きっと気づかなかった自分を責めているのだろう。 そんなことはない、気づこうとしても気づける距離にはいなく、 そして自分が裕太には、裕太だけには気づいてほしくないと思ってしまったのだ。 裕太が気に病む必要などどこにもない。 自分はただ願っただけだ。 愛するみんなには、誰一人残らず全員に笑っていてほしいと。 だからこそ一番愛する裕太には、心配などかけたくなかった。 「・・裕太」 「今から行く」 突然告げられた言葉に、不二は目を瞠る。 「え、だって学校・・」 「今から行く」 それだけ言うと。 突然裕太からの通信は途絶えた。 ツーツーツー。 響く通話音を呆然としながら聞き、手の平に携帯電話を握りながらその場で身動き一つできなくなる。 そうして突然頬に上ってくる熱。 これから裕太に会えるのだと思うと、酷く動揺した。 平静などではいられなかった。 そうこうしているうちに、頭の上でくすりと笑う声が聞こえる。 「プレゼントは気にいった?」 不二の手から乾の携帯を取り上げて、彼は不敵に笑う。 「・・・大変気に入りましたよ!!」 なんて、まだ頬の赤いままに怒っても威力がないことなど知っている。 お節介だ、なんて思いながらも心の奥底ではひどく感謝している自分がいるのだ。 「・・有難う」 聞こえるか聞こえないかの声でそう呟いたら、風に乗ってその声は届いたらしく、 不二に背を向けた乾が手をひらひらと振りながら屋上を後にした。 全く、お節介な親友たちだ。 そう思いながら不二は青い空を見上げる。 それから、もう一度感謝の言葉を空に投げた。 この言葉が風に乗り、九州にいるもう一人の親友の元へ届けばいいと、そう願いながら。 そうして不二は急いで屋上を後にした。 ――愛する人に会うために。 |