+Start・1 心もとないような浮遊感が体全体を包んでいる。 足が地面に触れていないかのようなそんな感覚。 体の中には何も入っていないのに、それでも人間としての体を作っている外側の組織だけで何とか生きているような気がしていた。 いつからこうなってしまったのだろう。 今までは好きなことをやってくることができた。 やらなくてはいけないことは、好きなことだけだった。 しかし、今の自分の周りにはやりたくないのにやらなくてはならないことがたくさんある。 これからの進路、進む大学、そして将来何をしたいのか――。 いつまでも高校生でいることは叶わない。 前へ進まなくてはいけないことは分かっているけれども、どうしても頭が考えることを拒否するのだ。 したいことがあるのならば、そのために何をしなくてはいけなのか。 高校を卒業していく前にやらなければならないことは山積みだ。 しかし、何故だか考えたくなかった。いや、考えられないというのが正しいのかもしれない。 心の中には何もなく、『何がしたい』という体を動かすほどの熱を持って訴えかけるものは全くなかったからだ。 何がしたいのかくらい、体の中を掻き回して搾り出せば一つくらい出てきたかもしれない。 しかし敢えてそれをしなかった。したくなかった。 まるであと少ししかない時間をできるだけ引き延ばして、まだ時間があるかのように錯覚をさせて。 そうして自分で考えることを拒否していた。 まるで空を飛ぶことができない生き物が、空を手にして飛んでいる鳥に憧れ、羽を手にしようと必死でもがいている様にも似ている。 考えてしまえば絶対に手に出来ないものを望んでしまいそうで怖かった。 空を駆け巡ることができる羽を求めて、ただ狂ったように上を見つめて。 羽を手に入れることができない自分は周りの人々に笑われ、傷つくだけなのに。 一歩前へ進む勇気なんてなかった。 自分はこのまま言われるがままに進むべき方向を決められ、そしてその道に歩きだしてしまうのだろう。 だからこそ、まだこのままでいたかった。 もしかしたら望むべき道に進むことができるかもしれないと淡い期待を持ちながら生活していける今を。 戻るべき道は塞がれ、もう道はなく、前へ進むことしかできなくなったとき、自分はやっと進みだすのだろう。 楽しかった過去を振り返ることもできずに。 ◇◆◇◆ 木暮は一枚のプリントを見つめていた。 そのプリントには大きく『進路調査』と書かれていて、更に木暮の心を空虚にした。 教室では担任がしきりに提出期限日を守ることを口にしている。 木暮はひとつため息をつく。 目の前にこうしてつきつけられる現実に、行くべき道は一つ一つ塞がれていく。 頭の中でもそれを自覚していて、閉じられていく道のビジョンが鮮明に浮かんでくるようだった。 志望大学の欄にはきっと、いつもの字で、それでも何も心など入っていない文字で、何をしにいくのかもしれない大学の名を、学力が合っているというだけで書き込むのだろう。 そんなことが容易に想像できて、木暮は自然と苦虫を噛み潰したような顔になる。 友達は皆、行くべき進路を見つけ、それに向けて進みだしている。 大学に行かなくても、就職をする人もいれば、有名大学へ入るために必死で勉強に励んでいる人もいる。 そうやって前へ進みだしている人が羨ましかった。 そこまで自分を追い立てることができるものをもっている彼らが羨ましかった。 どうして前を向き続けていられることができるのだろう。 無いものねだりと言われるかもしれない。 そんなことを友達に尋ねたら、きっと木暮の持っている他には無いものを教えてくれるかもしれない。 だけれども、ただただ羨ましくて仕方がなかった。 「木暮」 呼びかけられて振り向くと、そこには他の生徒よりも頭一つ飛び出るほど大きな赤木が立っていた。 「どうしたんだ、赤木」 木暮が尋ねると、赤木はすぐに用件を切り出してきた。 「ああ、お前、進路はどうするんだ?」 いつの間にかHRは終わっていたらしい。 周りの生徒の間でも進路の話は格好の話題になっていて、赤木もその話をしにきたのは間違いなかった。 「俺は適当に・・。学力に見合ったところにいくよ」 自然と笑顔が出ていることは自分でも分かっていた。 こういうとき、自分が外部の組織だけで生きているということを強く感じる。 心の中には何もないのに、どうして笑うことができるのか分からなかった。 そんな自分を浅ましくさえ思う。 「そうか」 木暮の答えを予想していたのか、赤木はあっさりと頷いてみせた。 「どうして突然そんなこと聞いたのさ」 赤木は他人のことを気にする奴じゃない。自分にも他人にも厳しいから、その人が決めた進路をとやかく何か口出しをすることがない。 責任は自分で取るのが当たり前のことだからだ。 それがよい方向に向かっても悪い方向に向かっても、それは自分が決めたことならば何も言わない。 そういう奴なのだ。 その赤木が珍しく木暮に進路を尋ねてきたのだ。 木暮が不思議がらないことはない。 「いや・・。この前偶然三井に会ってな。お前の進路を聞いてくれと頼まれたんだ」 赤木の言葉に木暮は体の芯から凍っていくような感覚を覚えた。 『三井』という名前を聞いただけで、全ての機能が停止してしまうかのようなそんな感覚。 笑顔さえも作ることができなかった。 「・・そうか・・三井が。なんだよあいつ、自分で聞きにくればいいのに・・」 それだけ口に出して、木暮は何とか笑顔を作った。 それが今木暮にできる精一杯のことだった。 懸命に平静を装って、声も震えないように慎重に紡ぎだす。 赤木はそんな木暮に気がついたかもしれなかったが、突然担任に呼ばれ、『悪い』と言ってそのまま教壇へと向かっていってしまった。 赤木の背中が遠ざかるのを見て、木暮は小さく息を吐き出した。 全身が強張っていたのが分かる。呼吸もうまくできていなかったかもしれない。 それだけ『三井』という言葉は木暮にとって衝撃的だった。 最近、三井には会っていない。木暮は進学のために予備校に通っていたし、まだ部活を引退していない三井は毎日のように部活がある。同じ3年生とは言っても、クラスが違うので滅多に会うこともない。 ――もちろん、会いに行けばいつでも会うことができるのだが。 意識的に三井と会うことを避けていた。お互い忙しいということを理由にして、三井に会うことをしなかった。 三井は自分の進むべき道を持っていて、その方向に向かって間違うことなく歩を進めていたから。 人のこと羨むことしかできない自分が三井に会えば、心の中の暗い感情が見えてしまいそうで怖かった。 汚い自分を三井に見られることはすごく情けなくて嫌だった。 三井は木暮が意識的に会わないようにしていることに気がついているはずだ。 それでなければ赤木に木暮の進路を尋ねさせるようなことはしない。 木暮は目を閉じて、ぎゅっと手を握り締めた。 三井に、もう何日会っていないのだろう。 自分はそれを考えなくてもはっきりと声にすることができた。 考えないようにしながらも、三井と会えない日を無意識の中で数えてしまっていた。 本当はいつもいつも思っていた。 一人になったとき、暖かい腕が後ろから優しく抱きしめてくれないかと。 想いに潰されそうになるとき、隣から、口の端を軽く上げて『馬鹿だな』って笑いかけてはくれないかと。 自分からその腕から拒んでいるくせに、三井の暖かさに縋りたくなる。 それが自分勝手だと分かっていたとしても。 三井に会いたいという気持ちは日増しに大きくなっていくのを木暮は知っていた。 木暮は空欄のままのプリントを手に取って、そっと鞄へと入れた。 断ち切らなければならない感情が目の前にまで迫っていることを知りながら。
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