+Start・2 「今日も遅くなっちゃったな・・」 木暮はすっかり人通りの少なくなった道を歩いていた。 予備校での授業が長引き、帰りが少し遅くなってしまったのだ。 しかし遅くなったといってもまだ10時。 男子高校生が夜に一人歩きをして心配されるような時間ではない。 木暮は煌々と輝く星空を見て、軽く眉間に皺を寄せた。 別に予備校で勉強したいことがある訳ではない。 数式の書かれる黒板、テキストの問題を解き、先生の解説を聞く。 前へ進むためには必要なことだと分かっていても、ただ機械的に授業を受けているとしか言いようがない自分がいる。 何かが違う。 他人からもたらされる情報は、自分の側に受け入れるものが何もないから、ただ自分の中を通り過ぎるだけで、何も自分の糧とはなりえないのだ。 木暮は一つため息をつく。 このままじゃ何の解決にもならない。 自分の行くべき道も決まらないまま流されていくのでは、いつまでたっても三井に顔を合わすことができない。 進むべき道を進んでいる三井に負い目を感じながら傍にいれば、きっと三井は木暮に愛想をつかしてしまうだろう。 恋愛とは、対等関係でなければならない。 どちらかが一方に寄りかかりすぎたり、甘やかしすぎたりする関係は いつしか壊れていく。 それだけは絶対に嫌なのだ。 みっともない自分に愛想をつかされて、三井が離れていくのを見たら、間違いなく自分は立ち直れなくなってしまう。 だから、何か三井に見合うだけの想いを持って三井と向かいあっていきたい。 三井は優しいから、そんなものはなくてもいいと軽く笑ってくれるかもしれない。 だけれどもそれでは自分は納得しないのだ。 どんなに些細なものでもいい。 何か認められるだけの想いが欲しい。 自分で納得しうるだけの想いを持っていれば、それに縋ることだってできる。 もし何もない自分が、強い想いを持った三井を前にして、醜い嫉妬を持つようになったら。 そう考えるだけで心の中に暗い影が淀む。 木暮は自分の胸に手をあて、何もない空虚な心に問い掛けてみた。 本当はやりたいことがあるんだろう? 表に出して傷つくのが怖いくらいに大切な想いが。 木暮が尋ねても尋ねてもその想いは未だ硬い殻に閉ざされたまま、外へ出ることを頑なに拒んでいる。 大切な想いは簡単に外に出て、傷ついてしまうことを恐れて。 なんとも自分らしいと木暮は思う。 バスケ部のメンバーとは違って、自分の心はひどく頼りない。 もっと誇れるだけの真っ直ぐな想いを持っていて。 ひたすらにそれを追いかける彼らが羨ましいとさえ思った。 これでは、こんな自分では、いつまでたっても前へ進むことなどできない。 木暮はふと、歩んでいた足を止めた。 もうすでに家まであと少しという距離まで来ていたのだが、何かいつもと違う気配を感じて木暮は立ち止まった。 家の傍の壁に誰かが座っている。 姿を見て、木暮は思わず体が震えた。 三井、だ。三井が座っているのだ。 いくら暗くても自分が三井の姿を見間違えるはずがない。 どうして。 そんな考えが頭の中を回る。 思いがけない三井の姿に、情けないほど動揺している自分がいた。 足は震え、このまま逃げてしまいたい衝動に駆られる。 けれど、このまま家に帰らなくても三井はきっと自分の帰りをいつまでも待っているのだろう。 木暮は無意識の中でそれを確信していた。 それほどの意思がなければ三井は出向いたりなんかしない。 木暮は緊張で微かに汗ばんだ手を握り締めながらゆっくりと三井に近づいていった。 その足音に気がついたのか、三井がゆっくりと顔をこちらに向ける。 久しぶりに見る三井の顔。 部活帰りなのか、その顔には少しだけ疲労が覗いている。 疲れているのに木暮の帰りを待っていてくれた三井。 そのことに木暮の胸はひどく痛んだ。 そこまで想っていてくれることに罪悪感さえ覚えながら。 「・・木暮」 名前を呼ばれて、木暮は自分が立ち止まってしまっていたことに気がついた。 急いで三井のもとまで歩いていくと、三井もさっと立ち上がった。 「・・どうしたんだ、三井?」 尋ねる声は震えていたかもしれない。 どうして三井が来たかなんて薄々分かっていたけれども、それを自分から口にすることができなかった。 三井は一瞬眉を顰めて、ひどく辛そうな顔をして木暮を見る。 「・・ちょっと、いいか?」 三井の問いかけに木暮はただ頷いた。 それが今の木暮にできる精一杯の返事だった。 三井もそれが分かっていたのか、木暮の腕を優しく掴んで、家とは違う方向へ向かって歩き出す。 触れる三井の熱が暖かくて、見える大きな背中が懐かしくて、木暮は思わず泣いてしまいそうだった。 もしかしたら泣いていたのかもしれない。 自分がどれほど三井に焦がれていたのか思い知らされた。 三井の顔を見て、声を聞いたら、今まで悩んでいたことが嘘みたいに頭の中から消え去っていて、ただ三井への想いだけが体の中を満たしていた。 失っていた何かが戻ってくるようで、必死に縋りつくので精一杯で。 三井という存在が自分をどれだけ形作っているのかひどく強く感じた。 霞んだ瞳はいつの間にか公園を映し出していた。 三井は近くの公園に木暮を連れてきてくれていたのだ。 三井は一瞬立ち止まり、少し考えるそぶりをしてから木暮をブランコの前まで連れてきた。 掴んでいた木暮の手を離し、二つ並んでいるブランコの片方に三井はためらいもなく乗り込む。 「うわ、これもう少しで頭ぶつかるぜ」 鎖につかまり、立ってブランコに乗った三井は、もう少しで上の棒に頭が触れそうになっている。 そんな三井の姿に笑みを零しながら、木暮も隣のブランコに座った。 子供用に作られているそれは、今座ると少し窮屈に思える。 足で地面を蹴って少しだけ揺らしてみると、ブランコは小さな悲鳴をあげながら動き出した。 「なあ・・木暮、お前どこの大学に行くんだ?」 突然にかけられた言葉。驚いて振り向くと、三井は前を向いたまま、ブランコの上に立っていた。 返事をしなければと思うけれども、言葉を出すことにひどく勇気が必要で。 木暮は気がつかれないように小さく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。 「・・うーん、そうだな。まだしっかりとは決めてないんだけど、大体俺の学力に合ったところだと思う」 三井にも、赤木に返した返事と同じ返事をする。 きっと、この言葉と同じ内容のことを赤木から聞いているのだから、違う返事をする必要はない。 「・・そうか」 三井はまだこちらを向かないまま独り言のように呟いた。 もちろんその呟きは木暮にはちゃんと届いていたけれども。 木暮の志望大学を聞いて三井はどうしたかったのだろうか。 もう自分が大学へ行ってバスケットはやらないということは三井は知っている。 それにきっと―――大学がお互い別々になってしまうだろうことも三井は知っている。 木暮はふと我に返ったように三井の横顔を見つめた。 ブランコとブランコの間のほんの1mほどの距離。 遠くはないはずなのに、触れようと思えば触れることぐらい簡単に思えるのに、どうしても手が伸ばせないような錯覚を覚えさせられた。 この1mほどの距離が今の三井と木暮の関係を如実に表わしているのだと思うと、途端に張り詰められた心は冷えていく。 いつもなら、触れて、抱きしめてくれる暖かい腕は今はひどく遠い。 木暮が三井の横顔を見つめていると、その視線に気づいたのか三井もこちらに視線を向けた。 その瞳はいつもと同じく優しいけれども。 どこか寂しい色を湛えていることに木暮は気づいていた。 三井がゆっくりと口を開く。 何を言われるのだろうと、自然に身構えてしまう自分がいた。 「・・お前、俺と同じ大学に来ないか?」 三井の言葉に体がピクリと反応する。 皮膚がまるで人形のように硬くなって、頭の回路が全て停止してしまったかのような錯覚。 脳が三井の言葉を考えることを拒否してしまっている。 どうして今更そんなことを言うのか。 木暮が引退したときも、三井の推薦が決まったときも、いつだってそんなことは言わなかった。 なのにどうして今。 「・・なんでそんなこと言うのさ・・」 気がつかないうちに三井に問い掛けていた。 言葉は震え、うまく聞き取ってもらえなかったかもしれない。 それでも、聞かなければならないことだと思ったから。 下を向いている木暮には三井の表情は見えない。 だけれども静かに呼吸をする音や、小さく金属の擦れる音がやけに木暮の耳に響いた。 「・・お前と一緒の大学に行きたかったんだよ」 言葉を発する前に、三井は小さく呼吸をした。 木暮と同じように。 だから三井も緊張しているのだということは分かったけれども、色々なことが頭をよぎって三井の心情を深く考えることはできなかった。 「・・どうして今さら・・?」 同じ大学に行きたかったのなら、もっと前に言ってくれればよかった。 そうすれば何か他の道もあったに違いないのに。 「俺がお前の将来を縛ることなんてできないだろ・・。そりゃあずっと言いたかったさ。同じ大学に行ってほしいって。だけどな・・」 三井の声が少しだけ小さくなる。 「俺がどんなに望んでたって、切羽詰まるまでお前の将来を縛るような願いを言うなんてことはできなかったんだよ」 木暮は唇の端を噛んで、ブランコの手すりを握る手に力を込めた。 どうして三井はこんな自分に優しいのだろう。 自分はただ己の将来のことしか考えていなかったのに、三井はこんな自分にも優しさを分けてくれる。 ひどく惨めな気分だった。 自分はそんな優しさなんてもらう資格なんかないのに。 そんなに想ってもらうほどの人間ではないのに。 どうして。 「・・ごめん、・・ごめん三井・・」 瞼を出来るだけの力で強く閉じた。 そうでもしないとみっともなく泣き出してしまいそうだったから。 「・・ごめん、・・三井」 もう、遅いんだ。 俺が三井と同じ大学に行っても、もう同じコートに立つことなどない。 三井が行く大学は関東でも有名なバスケの強豪校だ。 たとえ木暮が普通の入試で大学に入り、バスケ部に入ったところでレギュラーはおろかベンチにさえ入れない確率が大きい。 それくらい木暮自身分かっていることだった。 もう、同じコートには立てない。 三井の3Pを見て、目を奪われて、勝利のときにふと合わせる視線も。 湧き上がる歓声の中で抱き合って喜ぶことも皆。 過去の思い出でしかない。 何度も何度も夢に出てくるほど考えた。 もちろん三井と同じ大学に行きたいという意思はあったが、遠くの観客席からしか三井の姿を見られないという現実に木暮はひどく傷ついた。 もうあの試合中の一体感が味わえないのだと思うと、三井と同じ大学に行くことがひどく苦痛に感じられたのだ。 心が引き裂かれるほど苦しいのならば、いっそのこと三井と同じ大学に行かなければいい。 それが木暮が出した答えだった。 木暮が謝罪の言葉を口にすると、三井は星空を見上げ、わざと場の空気を和らげるように明るく呟いた。 「・・あーあ、そっか。残念、残念」 三井の優しさにまた助けられている。 この男のようにいつか優しさを分け与えてあげられるよな人間になれるのだろうか。 人々を魅了し、夢と感動を与える三井のプレイのように。 いつか自分も広い心を持てる日が来るのだろうか。 三井がかちゃんとブランコの鎖を揺らした。 その音に木暮ははっと我に返って三井の方を見る。 少しだけ、髪が伸びたのかな、と思う。 髪が伸びた時の間、木暮が三井に会っていなかった確かな証拠。 三井の髪に触れたのはいつだったか。 『髪、伸びたね』と言って笑いながら黒いそれに指を絡ませたのはいつのことだったか。 それはもう、ずっと遠い昔のことのように思える。 前を見続けているその横顔は、一層精悍になったようだ。 このまま。 近くにいるのに触れられないまま、遠くに行ってしまうのだろうか。 ぼんやりと霞む頭はそんなことを考え始めた。 木暮の中にいる三井と少しずつ変わってしまった三井は、遠くに行ってしまうのを暗示している布石であるかのようで。 それを見つけるたびに木暮の心に暗い想いが積もっていく。 三井が好きで、嫌われたくないから一番最善の方法を辿っているはずなのに、どこからか道は逸れてしまっていたに違いない。 悩んで出した答えも結局はいい方向に向かわないのだろう。 どうして。 もう心の許容量がいっぱいで、何も入らなくなってしまって。 どうしたらいいのか分からなかった。 木暮は俯いて、ただ何もない公園の砂をじっと見つめていた。 「・・木暮、俺のこと嫌いになった・・?」 突然の言葉に再び頭の回路が停止した。 ・・どうして自分が三井のことを嫌いにならなければならないのだろう。 嫌われたくなくて、一生懸命みっともなく足掻いてまで一緒に歩いていける道を探しているのに。 好きすぎて苦しいのに。 伝えたい言葉がたくさんあるはずなのに、感情が先に走ってしまってうまく言葉が出てこない。 塞き止められた感情が大きな熱となって木暮の内を焦がす。 「・・俺のこと嫌いになったから一緒の大学に行きたくないのか?」 三井の言葉に、出口を失った感情が一気に溢れ出してくる。 木暮はいつの間にか泣いていた。 自分でも気がつかないうちに感情が熱い雫となって流れだしていた。 言葉にしなければならない感情があるのに、口はマリオネットのように動くだけで、肝心な言葉を紡ぎだすことが出来ない。 あとからあとから流れ出してくる涙に、視界さえも利かなくなって。 心が許容量を越えてしまったのだと、微かに残っていた頭の冷静な部分がそう告げていた。 このまま三井に誤解されたまま離れていってしまうのだろうか。 木暮は三井のことが好きではないと理解したまま終わってしまうのだろうか。 もう受け入れることのできない感情が木暮の中を回っていて。 許容量を越えた心はあとからあとから雫を流し続ける。 カチャリと金属が動いた音がして、足音が木暮の前まで近づいてきてそして止まった。 「・・わりい、泣かせるつもりなんてなかったんだ」 言葉とともに頬に降ってきた熱。 口付けされていると気がついたのは少しの時間がたってからだった。 涙の跡を唇で辿られて、熱が頬に降り注いでいく。 その暖かさに体を震わせて、小さく息を吐くと、三井の唇も少し震えていることに気がついた。 それに少しだけ落ち着きを取り戻して、木暮は感情のまま言葉を告げる。 「・・・三井は、どうして俺がお前のこと嫌いなんて言うんだよ・・!俺はこんなに悩むほどお前のこと好きなのに・・。嫌われたくなくて・・。どうしていいのかわかんなくなって・・。・・三井こそ俺のこと・・」 全てを言う前に唇を三井の唇で塞がれてしまった。 三井の舌が呼吸が出来ないくらい深く木暮の中に入ってくる。 「・・っん」 久しぶりの感触に脳から溶けていってしまいそうなほど、快感がダイレクトに伝わってきて。 ここが公共の公園であることも忘れてしまうくらいに三井の熱を追った。 「みつ・・」 「俺はお前に会えなくて死にそうになったくらいお前のこと好きだぜ」 真っ直ぐに一点の曇りもない瞳で見つめられて、木暮は三井の首に腕を回した。 体を預けると三井はこれ以上ないほどの力で抱きしめてくれて。 三井も自分のことを好きでいてくれるのだと分かって至極心が震えた。 呼吸が苦しくなるほど抱きしめられても、まだ足りないと思った。 もっと三井とひとつになってしまいたかった。 「・・俺のうち、来るか?」 耳元で囁かれた言葉に、木暮は小さく頷き、三井の手をしっかりと握った。
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