+Birthday+




ここ何日か。

英二にまともに会っていないような気がする。

いや、気がするのではない。

本当にまともに顔を合わせていないのだ。

新年度も始まったばかりの4月。

学級委員の大石のもとへは自然と仕事が集まってくる。

クラスの提出物であるとか、クラブの集まりであるとか。

様々な用事が大石へと降りかかってくるのだ。

それに加え、ランキング戦まで重なっては忙しいこと限りない。

けれども英二のことを忘れていたわけではない。

多忙だからといって、英二と会えなかったということを忘れるほど、

頭が許容量を越えてしまうということはありえないことなのだ。

自分の頭の中には、日常生活のことを記憶するための部位と、

英二のことを記憶するための部位とは完全に分かれている。

だからこそ、忘れることなどありえない。

忘れること、それは自分の体の一部を切り離すということに他ならないのだ。

けれどもし、将来に彼を忘れなくてはならなくなったとき。

それは大石の体に相当の痛みを生じさせるのだろうと。

ぼんやりと思った。

けれどもそんな時は一生来ないのだろうと、

確信にも似た奇妙な感覚を持っていることもまた事実だ。

英二のための中枢神経は、もちろん彼とまともに顔を合わせていない日数を知っている。

だから、会っていない気がするのではない。

本当に会っていないのだ。

例えば、朝の練習にしても、部活中にしても、顔を合わせることは滅多になかったと思う。

朝、大石は委員会の集まりがある。

しかし、そのために部室の鍵を開けないわけにも、練習量を減らすわけにもいかない。

だから大石は誰よりも早く学校へ向かい、鍵を開け、黙々と自主練習に励む。

そうして、大石の次に早く来た部員に後を任せて自分は委員会へと急ぐのだ。

だから、英二と会うことなど皆無である。

英二は家族の関係上、朝は料理などを手伝い、遅くなることが多い。

だから朝の早い英二と会うことなど滅多にないのだ。

また、部活中にしてもそうだ。

大石が委員会の仕事やクラスの仕事で少しだけ遅れて部活へ向かう。

そうすると手塚から別メニューを言い渡され、それをこなしていく。

体が温まったところで乾のメニューをレギュラー全員でこなすのだが。

いつもいつもそれがダブルスの練習という訳ではない。

もしそれがダブルスの練習だけであったのならば、

英二と顔を合わせることなどたやすかったのだが、生憎練習内容はそれとは違い、

個人の技術や体力を重視したメニューばかりであった。

だから、尚更英二ときちんと顔を合わせることなどできなかった。

自分の中で、英二と会うことができない不快感が募っていく。

それはじわりじわりと芽を発して、いつしか抑え切れないところまで成長をしていった。

表面上は笑顔を作っていても、目の端ではいつも英二の姿を探そうとしていて、

そんな自分に気づいたときには流石に笑みが零れた。

けれども全てを投げ打って英二のところへ行くわけにもいかず。

なんせ今は4月であり、全ての始まりなのだ。

クラスであれ部活であれ、新しいことが山積みの状況で。

それを放り出してしまえば、全ての関係を崩してしまうということに他ならない。

だからこそ、自分を押さえ込む。

今という時期が過ぎ去ってしまえば大丈夫なのだと、いつもの状況に戻れるのだと、

そう自分を騙し騙し日常を送ってきた。

こんなに長い時間、英二とまともに会話すらしなかったのは珍しいのだと、

大石は今更ながら気がついた。

いつもなら。

会うことができない大石に焦れて焦れて、泣き出さんばかりに向こうからやってくるのに。

今回はその片鱗すら、彼は見せることがない。

もしかして、もう愛想を尽かされてしまったのだろうか。

ふと浮かんだ疑問に、心を引き裂かれるような痛みが走る。

考えれば考えるほど、英二は自分のことを避けているのではないかという疑問に駆られる。

そういえば部活中も彼に避けられてはいなかっただろうか。

いくら個人技能向上のための練習とはいえ、英二と会話をする時間くらいはあったはずだ。

仲の良い青学テニス部のこと、練習中でも互いのプレーを見て批評しあったり、

褒めたりするのは日常茶飯事のできごとだ。

しかし。

そんな時でさえ、菊丸英二と話すことはできなかった。

大石が英二の姿を探し、視線を向けると彼は、いつも大石とは違う誰かと話し込んでいるのだ。

そんな光景を見ることは実に珍しいことで。

何故ならいつもは大石と二人、会話をしあっているいるからだ。

あまり見ない相方の姿に、大石はその会話の中に混じることも気がひけて、

大石に話し掛けてきた他の部員たちと会話をしてしまうのだ。

それっきり。

英二とは部活の中で視線も合うことすらなかったなかったと思う。

いつもは、お互いがお互いの方を向いていれば、

いつだってその視線に気が付いて笑顔を向けたものだった。

今では大石がその表情を見ても英二がこちらを向くことはなく。

英二の視線を感じないから、大石も英二の方に笑いかけることもなかった。

どうして、こんな風になってしまったのだろうかと。

後悔にも似た問いが大石を襲う。

今ここで、今までやり遂げてきた全てのことを捨てて、英二のもとに走っていったら、

彼はまたいつもの大輪の花が咲いたような笑顔を向けてくれるのだろうか。

いや。

彼はそんなことを望んではいないと思う。

物事を中途半端で投げ出してしまうような人間を、誰が好きだと思ってくれるのだろうか。

英二は、大石にたくさんの仕事があることで怒るような人間ではない。

大石が仕事にかまけて、英二を構う時間が少なくなったことに、

少しだけ拗ねてしまう人間なのだ。

英二の性格は誰よりもよく分かっているはずだ。

けれども。

今までなかった英二の態度に、不安にならずにはいられなかった。

どうして、何も言ってはこないのだろう。

いつもなら見せる不安でさえも、全くないような顔をして。

まるで大石なんていなかったかのように、普段通りの行動をしている。

やはり、もう。

もう、限界の近づいた恋なのだろうか。

いつか、屈託のない笑みを浮かべた英二に、最後の言葉を伝えられるのだろうか。

そう考える大石は、けれどもこのまま留まることもできず。

全ての感情を押し殺して、じっとその場を踏みしめる足に力を込める。

大石は、きっと来るであろう安息の日々を目指して、歩き続けることを選んだ。

今ここで、止まってしまったとしたら、英二はきっと快く思わない。

それに、自分も、ここで止まりたくなどないと、心の底で思っている。

だから、歩き続けるしかないのだ。

それ以外、能がない自分にも嫌気がするけれども。








時は、4月29日。

久し振りの休みは、けれども休みという名前だけでしかなく。

大石は家に持ち帰った仕事を、ただひたすらにこなしていた。

ふとすれば頭の中全てを占めてしまいそうな恋人のことは、

ねじ伏せるように心の奥底にしまった。

時とともに終わっていく仕事が増え、夕飯を終え、風呂に入り、

やっとラストスパートというところまでやってきた。

しかし、今ここで仕事を終えたとしても、明日になればまた、

雑多な仕事が自分の上に降りかかってくるのだと思うと、ため息を零さずにはいられない。

カチリ、カチリと、時計が正確に時を刻む音だけが室内に響き渡る。

大石は仕事をするとき、音楽を聞くなどということはほとんどなかった。

静かな場所でしか、精神を落ち着けて仕事をすることができないのだ。

夜の闇はもうすっかり空を覆い。

カーテンの隙間から見える空は、もう闇と同化していた。

目の前で苦闘を繰り広げていた書類も、あと一文字書けばその仕事を終える。

大石は最後だということを殊更に意識をして、ゆっくりと丁寧に字を書き終えると、

そこで一つ伸びをした。

そうして、今まで作業をしていた書類を、忘れないようにすぐに鞄の中へとしまう。

折角終わらせた仕事も、家に置いていったのでは意味がない。

鞄の中にしまい終わると、大石はそこでやっと安心したかのように、体の力を抜いた。

一日中机に向かっていた体は、想像以上に疲れているようだった。

時計に視線を移すと、そろそろ日付も変わろうかとしている頃。

分を示す長針を見つめながら、大石は今まで心の中に仕舞っていた感情を引っ張り出した。



もしかして、英二から電話があるんじゃないかと、日付が変わるまでじっと。

携帯電話の前で待っていた自分は酷く滑稽であるのかもしれない。

カチリ、と時計の針が4月30日を指す音を聞いて、大石は携帯電話を机の上に置く。

そして布団の中へと入った。




きっと朝には、英二に会うことができるのだと願いながら。