「行ってきます」


まだ朝の日も昇りきっていない頃、大石は家を出る。

日課となってしまったそれに、家族はただ笑顔で送り出してくれる。

ドアを開けて思わず辺りを見回す。

もしかしたら、誕生日おめでとうと。

めいっぱいの笑顔で笑う英二がいるのではないかと。

僅かに期待をしていたのだけれども、それもただの夢で終わったようである。

なんと、寂しい誕生日になったものだろうか。

自分は誕生日だと皆に言いふらすことはしなかった。

もちろん、青学テニス部の中には、

自分の誕生日を盛大にみんなに言ってまわるというような性格の人間は

ほとんどいないのだが。

テニス部のメンバーはみな、こういう行事にはひどく敏感だ。

いつもは仮面のような表情を貼り付けている手塚でさえ、

アニバーサリーというものをとても大切にする。

みなそれぞれ自分の大事な人たちの喜ばしい日をおろそかにしないという心持ちがあるらしく、
いつも何かしら趣向を凝らして記念日を祝うのだ。

しかし、もしかしたら、と。

仲間たちのことを信用していないだとか、疑っているということは全くないのだが。

まだ新学期も始まったばかりの4月、

それも自分たちは今、3年生となり、部を動かしていかなければならない立場にもなった。

そんな中で大石の誕生日というものが、

みんなの頭の中から抜け落ちてしまっていても、何も不思議はないと思うのだ。

だからもしかしたら。

今日が自分の誕生日であるということが、

ただ自分の心の中だけに存在しているだけのものであるのかもしれない。




大石はすっかり散ってしまった桜の木を見上げながら、澄み渡る空の青さに目を奪われた。

そういえば、去年も。

随分と綺麗な天気の日だったと思う。

雲ひとつない空に、まるで天気でさえも自分の誕生日を祝ってくれているように感じたな、と。

去年を思い返しては大石は僅かに苦笑いを零した。

まるでもう、今年は誰からも祝ってなどもらえないと決め付けているような思考に、

随分と自虐的だなと思わずにはいられなかったのだ。



もうずっと昔の出来事のように思える、去年の誕生日の出来事。

去年は、まだ部室を自由に使えるような立場ではなかったから、

部活後に近くのファーストフード店に行って皆で馬鹿みたいに騒いだ記憶がある。

みんなに、おめでとう、おめでとうと言われながら、みんなに奢ってもらった。

中学2年生の小遣いなんてたかがしれているから、みんな少しづつお金を出し合ってくれて。

デザートまでついた豪華なセットになったトレイを、みんなからプレゼントされたのだ。

乾が特典として、新開発の乾汁を持ってきてくれていたのだけれども、それは丁重に断った。

もちろん乾も初めから本当にプレゼントなどする気はなく、

みんなを笑わせるネタとして持ってきてくれたのだけれども。
だから自分と乾のそんなやり取りを見ていた他の4人は、

本当に楽しそうに笑ってみせたのだった。



みんなに祝われた後、英二にはこっそり、

『みんなには内緒ね』

と念を押されながら、特別にプレゼントを貰った。

それはまるで今日の天気を前から見越していたかのような、青い空色をしたタオルであった。

前々から少しづつ小遣いを溜めて買ったのだと嬉しそうに笑う英二に、

これ以上ないほどの幸せを貰って、路上にも関らず、英二を抱き締めたのだ。



大石は晴れ渡る空を見て、一つ溜息をつく。

今日は一体、どんな日になるのだろうかと。

晴れ渡る空に問わずにはいられなかった。







今日も結局、仕事に追われる羽目になって。

もしかしたら不二や乾が自分のところに尋ねてきていたのかもしれないのだけれども、

休み時間はそんなことを気にすることも出来ず、忙しく動きまわっていた。

しかし、乾や不二なんかが教室に来たら嫌でも目立ってしまうから、

自分が気づかなくとも他のクラスメイトが自分に教えてくれていたはずだと気がついて、

やはり今日、自分に尋ねてきたものはいないのだと理解した。


そして、予想をしていたにしろ、やっぱり少しだけ淋しかった。






「大石くん」


部活に向かおうと急ぎ足で廊下を歩いていたとき、突然クラスの担任に声をかけられた。

嫌な予感に駆られて、思わず聞こえなかったフリをしてしまおうかと思った。

しかし大石の性格上、そんなことをすることなどできず。

正直にも足を止め、その声に振り向いてしまう。


「ああ、よかった。大石くんがいて・・」


その言葉に大石は乾いた笑みを浮かべる。

教師というものは誰しもこんなに、自分の都合が大切で、

人の都合などお構いなしなのだろうか?

しかし、今日はどうしても勘弁して欲しい。

どんなことがあっても、彼に会いたいのだから。

断ろうと大石は人当たりのよいと称される笑顔を浮かべる。

しかし教師歴の長い女性教師は大石が言葉を発する前に、

手にしていたプリントを大石の手に預けた。


「どうしても今やってほしい仕事があるのよ。お願いできるよね?」


彼女は自分が背中に背負っているテニスバッグが目に入らないのだろうか。

それとも、自分のクラスの生徒のことであるのに、

大石がテニス部の副部長であると知らないのであろうか。

あまり似合うともいえない真っ赤な口紅を引いた教師は、

有無を言わさない笑顔と言葉で大石を追い詰める。


「・・・はい」


そう、肯定をする言葉しか口にすることができず、大石は内心大きなため息をついた。


「そう、じゃあよろしくね。できたら私の机の上に置いておいて」


逃れることのできない仕事を前にして、大石はやけに冴え渡っている頭の奥で、

沸きあがってくる感情があることを感じていた。

この教師が『机の上に仕事を置いておけ』と言うとき。

それは、大石が仕事を終えて学校を去ろうとするときにはもう、

彼女はこの学校にいないことを意味する。

真っ赤に引かれた口紅。

いつもよりどこか洒落た服。

授業の時には履いてくることなどない、高い靴。

長い間教師をしていて、どこか貰われそこねたという感があるこの女性教師に。

4月という月に相応しい、春が来たのだろうかと推察するのは無粋であろうか。

背を向けて廊下の向こうへと去っていく彼女に、大石は大きなため息をついた。






・・・今日は、厄日に違いない。