3年2組で一人黙々と仕事を片付ける。 一体、何という仕事を押し付けてくるのだろうか。 自分は仕事の手際が悪い方ではない。 何年もこういう仕事に携わっている分、寧ろ手際はよい方であると自負している。 しかし、それにも関らず、仕事を終えたときには日はすっかり傾き、 校舎の外には部活をしている声でさえ聞こえないという時間になってしまっていた。 この量の仕事を生徒に任せ、一人帰るあの女性教師に少しだけ恨みが募る。 教室を出、職員室の担任の机に出来た書類を置く。 『お疲れさま』という日直であるのだろう教師の言葉に、 大石は少しだけ引きつったような笑みを浮かべて返事をした。 もう、笑顔を作るだけの心の余裕は残っていない。 考えてみても、自分は随分と可哀想だ。 誕生日の日に愛しい人にも会えず、大好きな友人たちにも会えやしない。 その上、仕事まで押し付けられて、帰ったらもう夜で。 家族で慎ましく自分の誕生日を祝ってもらい、そして日課としている予習をこなし、そして。 愛する人のことを考えながら自分は眠りにつくのであろう。 容易に想像できてしまう本日の予定に、大石は静かに目と閉じた。 人気のないテニスコートを横目で見ながら、大石は部室へと向かった。 もしかしたら誰かしら残っているのかもしれないと、淡い期待を持っていたのだ。 鍵を毎朝持ってくるのは大石の仕事であり、 部室を最後に出る者は必然的に大石に鍵を渡さなくてはならない。 けれども教室で仕事をしている時に、誰も鍵を渡しに来なかったので、 誰かしらまだ部室に残っているのだろうと思ったのだ。 部室に近づくと、やはりついていた部室の灯りに、大石はほっと肩を撫で下ろした。 きっと、難しい顔をしながら手塚が部誌でも書いているのだろうと、大石は想像をつけた。 その彼の姿が容易に想像できて、大石は小さく笑う。 ドアノブに手をかけ、扉を開ける。 しかしそこにいたのは予想していた人物ではなかった。 「・・不二?」 珍しい人物がいることに驚きながら、大石は部室内に入る。 「ああ、お疲れ、大石」 ベンチに座ったままヒラヒラと手を振る不二に大石は軽く頷く。 不二は何をしている風でもなく、ただ一人ベンチに座っていた。 その手には部室の鍵が握られていて。 もしかしたら手塚に何か用事があって、代わりに不二が仕事をしてくれていたのかもしれない。 「・・もしかして俺に鍵を渡すために待っててくれたのか?」 悪いことをした、と心配げに表情を変える大石に、 不二はいつもの読めない笑みを浮かべながら首を横に振った。 「別に君に鍵を渡すために待っていた訳じゃないんだけど・・。 当たらずしも遠からずってところかな」 不二のどこか含みのある言葉に大石は思わず首を傾げる。 「じゃあ一体何を?」 たった一人、部室で何をしていたというのだろうか。 もう長いこと不二とは友人をしているが、時々彼の考えていることが分からない時がある。 考えもつかずに大石は訝しげに不二を見る。 「大石」 突然、穏やかに空気の溶け込む、不二の柔らかい声音がこの場に紡がれた。 思いがけない優しい呼びかけに、大石は思わず不二を凝視する。 「君の大切な物って何?」 言葉を紡ぐと共に、不二は座っていたベンチから立ち上がった。 ギシリと乾いた音が部室内に響く。 「・・大切な、もの?」 不意の不二の答えに咄嗟に言葉を返すのを躊躇って、 不二の問いをそのまま鸚鵡返しに呟いた。 「そう。大切なもの。君はそうやって大切なものが何なのか考えたことはある?」 そう問われて、大石は素直に自分の大切なものを頭の中に思い描いた。 菊丸英二。 親友たち、そしてテニス。 一番初めに浮かんできた単語に、大石は少しの罪悪感を感じた。 自分の心はなんと正直なのだろう。 こうして、考えるまでもなく、脳は大切なものを認識してしまっている。 しかしそれを表に出すことをせず、そのまま不二と向き合った。 いつの間にか不二は大石の目の前に立っていた。 「あるよ。大切なもののことはいつも考えているさ」 そう、いつも。 心の中を占めているのはそのことばかり。 大石が不二に軽く笑いかけると、不二も僅かに顔を緩めた。 それはいつもの顔に張り付いたような笑みではなく、 不二が友人たちの間だけで見せる本当の笑顔。 「そう、その言葉を聞いて少し安心したよ」 不二はポケットに手を入れ、カサリと音を立てながらあるものを取り出した。 「僕は少しだけ疑っていたんだ。 大石はもしかして自分の大切なものが何なのか気がついてないんじゃないかって」 「おいおい。俺はそこまで鈍いと思われてたのか?」 余りに素直に感情を吐露する不二に、大石は思わず苦笑いを零す。 「うん。だって、大石、全然自分の大切なもの、大切にしようとしていないからさ」 不二の言葉に、瞬間部室内の空間が揺らいだ気がした。 どこか責めるような言葉の響きに、大石は済まないような気持ちで一杯になる。 きっと、不二は知っているのだろう。 自分が何を大切にしているか、そして。 その一番大切なものを、気にかけてやれていなかったことも。 「周りを気にして歩くのもいいと思う」 不二は僅かに下を向いた。 そうして手に持っていた白い紙をそっと大石に手渡す。 「それが君の個性で、君がその優しさを無くしてしまったら君じゃなくなるから」 大石は手渡された紙を開いて、そこに書き付けられている文字を読みとる。 その意味が分からなくて問うように不二を見つめると、不二は心底楽しそうに笑っていた。 「だけどね」 不二の声は柔らかく、大石を傷つけることなく体の中へ染み渡っていく。 「たまには自分のためだけに、前に進んでみることもしていいと思うんだ」 笑顔の不二のポンと背中を押されて、部室の外へと押し出される。 どうすればいいんだと困った顔で不二を振り返れば、 笑顔で手を振られて、バタンとドアを閉められた。 「おい、不二!?」 軽く部室のドアを叩いてはみるが、もう不二はそれに応じる様子はないらしい。 大石は軽くため息をついて、 とりあえず不二に手渡された白い紙に書かれた場所へ向かうことにした。
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