先ほどまで居た自分の教室にはもう明かりは灯っておらず、寂しい空間だけが広がっていた。 それを横目で見ながら、二つ隣の教室へと向かう。 4組に行って、一体自分に何をしろというのだろうか。 校舎内にはほとんど人が残ってはいないのであろう。 3年の廊下にはただ静寂だけが広がっていた。 4組に近づいていくと、そこに明かりが灯っていることに気がついた。 まだ人が残っているのだろうか。 4組、といえば。 ふと大石はとある人の顔を思い出す。 4組には河村がいるのだが、まさかこの時間まで彼が残っているとは思えない。 しかし、しかしだ。 不二があそこへ残っていたこと、そして、不二がわざわざ手渡しにしてくれたこのカード。 何か繋がりがあるような気がしてならない。 大石は明かりが零れる4組のドアを軽く開いた。 「大石」 そこには想像通り、明かりの灯った教室に一人河村が残っていた。 「タカさん・・・」 ラケットを持っていない時の彼は、まるで聖人君主であるかのように穏やかだ。 大石は苦笑いを零しながら河村に近づき、手にしていた紙を河村に見せた。 「不二にここに来いって言われたんだけど・・」 「ああ、うん。合ってるよ。ここに来るために呼んでもらったんだ」 穏やかな声と同じく優しい笑顔で笑う彼に、大石も自然と表情が穏やかになっていく。 河村は不思議な力を持った人だと思う。 きっと彼の優しさに救われた人も少なからずいるのであろう。 もちろん、それはラケットを持っていない時に限るのだが。 「ずっと仕事をしていたのかい?お疲れ様。今日の部活は無事終わったよ」 河村の報告に、大石は最大級の笑顔でお礼を返す。 「有り難う。無事終わったなら何よりだよ。でもまた手塚に迷惑をかけてしまったな・・」 「そんなことないよ。手塚はいつもどおりだったし。 寧ろ大石っていうストッパーがいなかったから喜々として部員を走らせていたと思うけど?」 「そうか・・。それもそうかもな」 河村の言葉に、大石は容易にその姿が想像できて、僅かに苦笑いを零す。 カーテンのかかっていない窓の向こうには、真っ暗な校庭が見える。 室内が明るいため、真っ暗な外は必然的に見ることができない。 何か言いたそうな、けれどもどこか躊躇っているような河村に、大石は促すように尋ねた。 「タカさん、何か?」 すると河村は一呼吸置いてから、普段より僅かに弱い声で話し始めた。 「・・・英二がすごく寂しそうに練習、してたよ」 久々に他人から聞くその名前に、大石は一瞬呼吸を止める。 受け止める準備をしていないときに投げかけられる言葉は、体に酷く衝撃をもたらす。 ドクリと大きく跳ねた鼓動に、大石は眉を顰めた。 「・・そうか」 英二に愛想を尽かされたわけではないのだろうか。 押さえつけていただけの感情は酷く脆く、簡単に心を締め付けるように湧き上がってくる。 眉を顰めた大石を見て河村は困ったような表情をした。 いつもならばそういうことには敏感に気がつくはずであるのに、気づくことができなかった。 「・・ご、ごめん大石・・。俺・・考え無しだったよ」 河村の弱々しい言葉に、大石は驚いて河村を見つめた。 自分の言葉に大石が傷ついたのだと勘違いしたのだろう河村は、ひどく慌てている。 いつもならそういう河村に笑顔の一つでも返して、何ともないよと言っているはずであるのに。 突然に投下された爆弾のような言葉に、普段の自分を取り繕うことさえできなかった。 「そんな!別にタカさんの言葉を気にしてる訳じゃないから・・」 申し訳なさそうにこちらを見つめる河村に、罪悪感で一杯になる。 自分のためにこうして教室で待っていてくれた、 優しい友人を傷つけようと思っていたわけではないのだ。 「本当に、大丈夫だよ」 取りあえず、河村を安心させるためにもここで誤解を解いておかなくてはならない。 傷ついたのは、河村の言葉にではない。 前々から深く淀んでいた傷口が、とある鍵によって開かれただけだ。 「大丈夫」 言葉にするたびに、まるで自分に言い聞かせているかのような口調になる。 大丈夫に違いない。 そう必死に自分で思いこもうとしているかのようだ。 喉元から発せられたことばは耳を通じ、心へと蓋をする。 間違って感情があふれ出してこないように。 しっかりと、蓋をする。 「・・俺の問題だから・・」 そう口にすると、河村は再び悲しそうな表情を浮かべ、そして微かに苦笑いをした。 「大石はそうやっていつも自分だけで抱え込もうとするんだね・・」 「!タカさ・・」 大石は自分の言葉を頭の中で反芻をしてみて、 また自分が墓穴を掘ってしまったことに気がつく。 こんなにも心配してくれている友に突き放すようなことを自分は言ってしまった。 「ごめ・・」 「大石」 謝ろうとする大石に、河村は思いがけない強い口調でそれを遮る。 「謝らなくて、いいよ」 どうやら河村は先ほどの大石の言葉をそれほど気にしている風でもなく。 いつものどこか困ったような笑みを浮かべて、頭を掻いた。 「大石が大変なの、分かってるつもりだから・・」 河村の言葉は一つ一つが優しく、そして温かい。 大石たちの頭の上で、ジリリと蛍光灯が音を発した。 教室内に、その他の音は全く聞こえることはなかった。 「大石は一つの答えを見つけたからここへ来たんだよね」 河村が真っ直ぐに大石の瞳を見つめる。 折角蓋をした感情に、正面からきり付けられる。 そんな、感覚。 「じゃあ・・さ、大石の大切なものは何?」 大切な、もの。 その言葉を、大事なもののように音として紡いだ。 繰り返すようにその言葉を口にして、河村が伝えたかった本当の意味を掴むことができた。 「不二に会って、その答えを見つけてきたんだよね?」 断定的な、河村の言葉。 見つけてないなどとは、言うことができないような、問い。 柔らかいけれども決定的なそれは、大石の心の底を攫っていく。 自分の大切なものは。 大石は河村の問いに深く頷いた。 大切なものは何かと問われた時に。 いつでも違えることない答えが、ある。 「その大切なものは今でも大好きかい?」 その問いにも大石は深く頷いた。 こういうのを、惚気というのだろうかと思ったら、少しだけ笑みが零れた。 そんな大石の雰囲気を察知したのか、河村も照れたように表情を崩す。 「うん、分かったよ」 河村は、僅かに顔を伏せて、そして窓の外へと視線を向けた。 そこには、いつも太陽の下輝いているコートがある。 河村は、強く、だけれども酷く悲しげな視線でそれを見つめた。 河村が何を伝えようとしているのか、分からないわけではない。 そのコートの下。 いつもは輝かんばかりに笑っている彼の、悲しげな、姿。 優しい河村は、悲しげな表情を浮かべる友人を見て、ひどく心を痛めていたに違いないのだ。 「ごめん・・タカさん。心配かけて」 そう、言うと、河村は大石に向き直って、静かに首を振った。 「大石はいつも優しいな・・」 河村は頭を掻きながら小さく笑う。 「でもさ」 河村はがさがさと自分の机の中に入っていた白い紙を取り出した。 そしてそれを大石へと手渡す。 「たまには自分の欲しいものを我侭に主張してもいいと思うよ。」 大石を見つめる眼差しは真摯で、その強さに気圧されそうになる。 ラケットを持っていない彼がこんなに強い感情を見せるのは久し振りなのではないだろうか。 「それくらいの我侭は許されるものなんだよ」 最後にいつもの、困ったようなけれども優しい笑みが大石に向けられた。 「・・有り難う」
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