4組から11組までの道のりは遠い。

青学テニス部のレギュラーの面々は皆1組から6組までに集まっているのに、

どうしてか彼だけはクラスが遠く離れてしまった。

だからかもしれないが、学校の中で乾と会うことは少ない。

大石のクラスから11組まで出向くのは滅多になく、

今もこうして11組まで歩いていくことに不思議な新鮮さを感じた。

4組から11組に向かうまでどのクラスにも既に人はいなく、ひっそりとしている。

11組の前までいくと、やはり4組と同じく明かりが灯っていることに気がつく。

大石は再びそのドアを開けた。


「やあ。待ってたよ」


そこにいたのはやはり予想通りの人物だった。


「乾」


僅かに表情を緩めて笑みを作る乾に、大石はほっと肩を撫で下ろす。

誰しも、人気のない学校にいることはご免被りたい。

乾は自分の席に座って、ノートを広げている。

データの纏めでもしているのであろう。

いつも部活中に良く見かけるノートは少し萎びてきているようだ。


「不二と河村には会ってきたかい?」


ノートから顔を上げて、乾はそう問う。


「ああ、会ってきたよ」


大石は乾の側へ移動して、その隣の机に軽く寄りかかった。


「それなら、別に俺から特に言うこともないんだけどな」


クルリと乾は器用にシャープペンを回す。

それが弧を描く様が酷く綺麗で、その軌道もデータによって計算されているのかとふと思う。

乾がペンを回すのをやめ、そして緩慢な動作でノートを捲る。

あまり楽しそうではないそれは、

もしかしたらただフリでノートを手慰みに弄んでいるだけなのではないだろうかと思う。




「・・菊丸は待っているよ、大石のことを」


唐突に、突きつけられた本題に、大石は僅かに息を詰める。

もちろん、余計なことなど一切飾り付けないのが、

乾という人間だと分かってはいたのだけれども。


「・・そうか」と。


ただ当たり前の言葉しか口にすることができなかった。

そんな自分を、つまらない人間だと思ったことは、生きていて何度もある。

乾は再びノートの、まだ真っ白いページを捲っては、そこをペンで数回叩いてみせた。


「大石の性格からして、

菊丸が自分に会いに来ないから嫌われたんじゃないかって考える確率87%ってとこかな」


乾の言葉に大石は思わず目を瞠る。


「どうして・・」


そんなことが分かるんだと、言葉を続けようとして、乾に遮られる。


「分からないとでも思っているのか?これでもずっと俺たちは友達だったんだ。それに・・」


「それに?」


「いや、何でもないよ」


どこか含みのある乾の言葉に、大石は問い返す。

けれども乾の方にもう再び言う気はなさそうであるので、

大石はしつこく問い返すということはしなかった。

乾はそれ以上、自分から言葉を発しようとはしなかったので、

大石は僅かにため息をついて、自分の方から言葉を発した。


「本気では思ってないよ。ただ・・」


言葉を途切れさせて、窓の外のコートを見た。

ぼんやりと浮かびあがるだけのそこには、もうもちろん、誰の姿もない。

けれども、静まり返ったそのコートに、一人で泣いている、

愛する恋人の姿が見えるのは何故だろう。


「不安になるだけさ。

こう何日も会っていないと、英二の顔を見ていないと不安でたまらなくなる」


きっと自分は弱い人間であるのだ。

あの愛する恋人が、自分の名を呼びながらやってきてくれるということが、

どれだけ自分を安心させてくれていたか。

もしかしたら、彼の優しさに胡座をかいていたのかもしれない。

自分の不安だけを満たしてもらっていただけで。

彼も、同じような不安を持っていてもおかしくないというのに。

ただ、満たされるだけの関係。

愛想をつかされたとしても、ただああ、そうかと頷くことしかできない。


「あいつがどこかで泣いていないだろうか、どこかで傷ついていないだろうか。

ずっと側にいることなんてできるはずがないのに、どうしてもそれを願ってしまう自分がいる」


誰もいない教室は普段よりも随分と広く感じる。

冷たいコンクリートに大石の声は静かに響く。

乾は何も言わずじっと大石の言葉に耳を傾けていた。


「本当はずっと傍にいたいんだ。英二が嫌がっても。ずっと」


大石は僅かに手に力を込める。

人の我侭を聞いてしまうことなんて、なんて簡単なことだろうと思う。

ただ、人が望むとおりに自分が動けばいいだけのことなのだから。

しかし、自分の我侭を通すということは、人の我侭を叶えることよりもずっと難しい。

人を、自分の思いのままに動かすということ。

それは、人を支配するほどに強い力を心を持っていなければ、難しいことであるのだ。

それを本能的に知っている自分は、自然に自己防衛に走る。

人の願いを聞くことは簡単で、自分の願いを叶えることは難しい。

下手に期待をして、傷つかないように。

自分を、守ってやるのだ。

なんて小さな自分であるのだろうか。


「・・そういえばタカさんにも言われたな。前に進めって。不二にも。」


思い出したように、大石は呟いた。

乾はまだ、何も言わない。

大石に言いたいことをまず、言わせてくれているのだろう。


「自分の好きな道へ進めってことなのかな・・」


乾に話しているはずなのに、全く答えない彼を見て、

まるで独り言を呟いているような感覚がした。

きっとそれも、彼なりの配慮なのだろう。


「でも、日常の制約がある中で、自分の思いのままに進んでいくのは難しいよな・・」


もしかしたら、難しいと決め付けることで、

自分を擁護してしまっているのかもしれないのだけれども。

人と暮らす、社会という名の生活の中で、

自分の望みだけを通して生きることは決してできない。

それは自由奔放ではなく、ただの唯我独尊にすぎないからだ。

それに。

自分はそんなに横柄な性格をしていないのだ。

横柄、という言葉は悪いだろうか。

子供の頃から培ってきた性格は早々直るものではなく。

自由が欲しいからといって、すぐに走りだしていけるような心の大きさを、

自分はもちえてなかった。

大石は、自分の手を眺める。

自分に後少しだけ、菊丸のような、越前のような奔放さがあれば、と思う。

今更、考えてもしょうがないことなのだけれども。

言葉を発しなくなった大石を見て、乾一つ、息をついて話し始めた。


「確かに、理想のために前へ突き進むというのは難しいかもしれない。だけど・・」


乾の、体に響く低音が教室に静かに広がる。

自分にはない、大切な考えを、乾は自分に教えようとしてくれている。


「それを限りなく完全に近づけていくことはできるんじゃないか?」


乾が何を言っているのか、まだ僅かしか理解することができない。


「たとえ、大石の性格が曲がったことを嫌う、素直な性格をしていたとしても。

たとえ、誰かを傷つけて、自分の欲望に走っていくことができない性格をしていたとしても。

けれどもその道の上で、自分の目的を満たす道に、

できるだけ近づいていく道があるんじゃないか?

違う道で、けれども限りなく目標とする道に近ければ、

それが自分のできる限りの行動の範囲だ」


ああ、と大石は思う。

やっと、乾の言いたかったことが分かってきた。

この友人は何でも難しく言葉を使おうとしすぎなのだ。

もっと質素に、考えを伝えてくれればいいのに。

結局は、自分のできる限りの範囲で、我侭は言っていいということなのだろう。

そうなんだろう、乾?

と。心の中で問うてみる。

間違えていたら嫌なので、言葉には出さなかったのだけれども。


「大石の性格を直そうだなんて、そんな考えはいらない。

大石という人格を否定することなどありえない。

もし大石がいなくなったらどうする?

青学テニス部は間違いなく崩壊する」


「・・有り難う」


乾の言葉に、僅かに笑顔を零しながら礼を言う。

河村の言葉によると、手塚が今日も喜々としながら部員を走らせていたという。

大石に嬉しい言葉を告げた乾は、

もしかしたら、手塚に喜々として走らされた被害者のうちの一人なのかもしれないと、

密かにそう思った。


「大石」


乾に呼ばれて。


「この世で、これから起こることに対して100%ということはありえると思うか?」


問われたことは、この世界に対する疑問で。

今までに起こったものとは全く違う質問に、大石はその本意を読み取りかねた。


「過去に起こってしまったことは100%でしかありえない。

その事実を変えることはできないからだ。

けれども未来起こるべきことは100%絶対に、ということはありえない。

例えば、手を伸ばして欲しいものを取ろうとする」


乾は、宙に向けて、僅かに手を伸ばした。


「しかし、それを取れるか取れないかなんて誰にも分かりはしない。

取れたと思ったら横から他の誰かに取られるかもしれない。

取れなかったと嘆いたら、空から降ってきたりもする。

未来のことなんて誰にも分からない。

ただ、分かるのは――」


そこで言葉を区切って、乾はコートを見た。


「乾?」


促すように、大石は乾の名を呼んだ。

そこで乾の言った言葉は、思いもかけない言葉だった。


「『諦めるな。諦めなきゃ必ず弱点は見えてくるんだ。

チャンスはどこかにあるハズ。自分達の力を信じよう。』

つまりは、欲しいものが取れるか取れないかなんて、本人次第なんだ。

そうだろ?」


大石は、乾の言葉にただ笑うしかなかった。

そういえば、コート上の自分は諦めるなどという言葉を知らなかった。

いや、『自分は』ではない。

コート上の『自分たちは』諦めることなど知らなかった。

二人、一緒ならば、いつでも上手くやってこれた。

そう。二人だったから。

今、こんなに自分が弱くなってしまっているのは、一人だからなのだろうか。

二人共にいることができれば、もっと違う自分が見えるのかもしれない。

大石は、僅かに力の入った手のひらを見つめる。

コートの上でプレイをして、彼と、手を叩きあったのは今まで何度あっただろうか。


「大石」


乾の、静かな声音が大石に呼びかけた。

深く心の奥に沈むような。

そんな、声。


「自分だけ物事を背負うのは、感心しないな。」


いつの間にか、手のひらには白いカード。

几帳面な字で書かれたそれは、乾の思いが詰まっている。


「俺たちはそんなに無能じゃないよ」


白いカードを手渡されて。

そうして、静かに手を振られる。

さっさと行け、とばかりに。


「だから俺たちをもっと信用してほしい」


これでも信用、してるつもりなんだけどな。

そう言ったら乾は、何て答えるだろうか。

























『3年1組』
一人で何でも抱え込まないように。
周りを見ればいつでも助けてくれる人たちがいるんだからさ。
HAPPY BIRTHDAY 
Dear Ohishi.