+猫と太陽 side亜久津仁+





屋上には一匹、猫が住み着いている。

住み着き始めたのは去年の春。

この学校に新一年生として入ってきたこの猫は。

いつの間には屋上に住み着くようになった。

元々、屋上は亜久津の絶好の居場所であったから、

今回来たこの猫も、追い出すつもりでいた。

今までも屋上をサボりの場所として求めてきた人間たちは、亜久津の一存で排除してきた。



春に来たこの猫は、屋上に来るけれども何をするでもない。

フラりと来ては空を眺め、昼寝をし、帰っていく。

屋上にはただ一人、亜久津がいるのだがそれを気にする様子もない。

観察しているうちに、この猫は亜久津に何の害も及ばさないことが分かり、

それ以来、亜久津はこの猫が屋上へやってくることを拒んだりはしていない。



と、いうか。

寧ろこの猫に、懐かれてしまっている。

青い、空を思わせるサングラスをかけた猫は。

時々気まぐれに亜久津に擦り寄ってきては、近くで眠っている。

黒い髪の毛が太陽の下、風に揺られて微かになびく。

こんなにも亜久津の近くで気を許して眠る人間は、あいつを抜かせばこの猫一匹だと、

亜久津は珍しいものを見るような面持ちで、猫を眺めた。

無防備に眠る姿に、暇を見つけては屋上にやってくる東方と南も驚いたくらいだ。

それくらい、この猫は随分と亜久津の傍で無防備なのだ。



今日も亜久津は退屈な授業の間、屋上で時間を潰そうと古ぼけた階段を上がった。

ドアを開くと、そこにはいつも通り、褐色の肌をした猫がいた。

彼はこちらに背を向けて座っていた。

けれども、いつもならば静かに眠っているはずの猫が、

珍しく膝を抱えてぼぉっと街並みを眺めていたのだ。

亜久津は不審に思ってその背に近づいていった。


「おい」


亜久津の声に、猫は振り向く。


「亜久津さん・・」


「どうかしたのか?」


亜久津の言葉に、猫は僅かに肩を震わせる。

隠し事ができない性格なのか、それとも亜久津の前だから表情を隠しきれないのか。

理由はわからないけれども、やはり猫は何か悩みごとがあるらしかった。


「何があったんだ?」


亜久津は猫の近くに腰を下ろしながらそう問うた。

もちろん、すぐに答えが返ってくることなど期待をしていない。

時間はたっぷりあるのだから、すぐに聞き出すことをしなくてもいいだろうと、

亜久津は手持ちぶさたになった手で、煙草を探した。


「・・・・・・」


言うべき言葉を探しているのか、猫は困ったように下を向く。

けれども僅かに顔を上げて、亜久津と向き合った。

その視線はサングラスに遮られて分からないが、

きっとどこか不安げな瞳をしているのだろうと、容易に想像がついた。


「亜久津さんの恋人に会ってみたいです」


突然の言葉に、亜久津は思わず目を瞠った。

今まさに火をつけようとしていた煙草を取り落としそうになりながら、

亜久津は猫に視線を向けた。


「何で突然そんな話になるんだ・・?」


当然の質問を亜久津は投げかける。

猫が悩んでいるのと、河村と。

何か関係があるとでもいうのだろうか。


「いえ・・特に理由はないんですけど・・。

 なんだか亜久津さんが好きな人ってどういう人なのか見てみたくって・・」


猫はまた、淋しげに顔を下に向けた。

一体本当に、どうしたのだというのだろうか。


「見なくても、お前の想像してる通りの奴だよ」


猫には、少しだけ河村の話はしている。

きっと大抵の人が思いつく、人情に厚く、優しく、温厚な、そんな人間の代名詞のような奴だと。

亜久津が以前、猫に話をしたのだ。

河村に会わなくても、きっと猫が想像した通りの人間が河村である。


「・・そうなんですけど」


「だから何なんだ!?」


煮え切らない猫の態度に、亜久津は僅かに声を荒げる。

猫は普段、こんな姿を見せることは滅多にない。

いつも表情は外に出さず、自分の中で全てを抱え込む。

けれども、それを崩しているただ一人の人間がいて。

毎日毎日、猫はその男に振り回されている。

その男こそが猫の恋人であるのだが。

亜久津はそこでふと思いついた。

どうせここまで猫を落ち込ませている原因も、あの能天気な男なのだろうと。

そう、結論を出して亜久津は僅かにため息をついた。


「・・千石の奴がどうした」


そう問うと、猫は僅かに肩を震わせた後、言葉を紡いだ。


「昨日、千石さんとヤったんですけど・・」


突然の言葉に、けれども亜久津は動じなかった。

彼らがそういう関係であるということは承知しているし、また免疫がない訳でもなかった。


「結構お互いに燃えて・・激しかったんです」


「・・それで?」


亜久津は気を取り直すために、手にしていた煙草に火をつけた。

千石とヤったことと河村と。

どう繋がるかは全て聞かなければ分からない。


「朝起きたら、体が痛くて・・。ちょっと動けなかったんです。

 そうしたら千石さんがすっごい心配してくれて。

 ずっと『ごめんね』って謝ったり、俺のことを気遣ってくれたりしたんです。

 けど、俺がいいですって言ってるのに、千石さんに謝られて・・」


「それで、お前は怒ったって訳か」


「・・はい・・」


しゅん、とまるで垂れた耳が見えるかのように、猫は僅かに表情を曇らせた。

しかし猫はふと顔を上げると、真っ直ぐに亜久津を見据えた。


「亜久津さんはどう思います?だってセックスって二人でするものでしょう?

 千石さんが一方的に悪い訳じゃないから、謝ってほしくないんです。

 ・・だから亜久津さんの恋人はどうなのかなぁって」


「・・ふーん」


「亜久津さんはどう思います?謝ってほしいですか、欲しくないですか?」


猫の言葉に、亜久津は考えを巡らせる。

優しいあの河村に、ひどいことをさせられた覚えなどないけれども、

やはり少しだけヤりすぎた日の朝に、同じようなことがあったのは覚えている。


「別に俺は気にしねぇよ」


亜久津はそう、猫に告げた。


「あいつはそういう奴だって分かってるからな。

 絶対に自分がヤりすぎたと思えば絶対に謝る奴だから、俺は気にしねぇ。

 謝りたいだけ謝らせておく。

 それに俺はただアイツの気が済むように甘えてればいいだけなんだよ」


亜久津は話しながら空を見上げた。

こんなところで、こういう話をしているから。

無性に彼に、会いたくなってしまったではないか。

最近、全く会っていないが毎日会っている訳でもない。

これ以上会うなどということはきっと、望みすぎているのだろうけれども、それでも。

アイツのことを考えると無性に。

あの顔が見たくなってしまうのだ。


「・・そういう考えもあるんですね」


静かに言葉を紡いだ猫の姿に、亜久津はため息をつく。


「お前らは気を張り過ぎなんだよ」


言葉をかけると、猫は不思議そうにこちらを向いた。


「お前は千石の前じゃ素直になれねぇ。千石はお前を離すまいとして必死だ。

 二人でカラ回ってんじゃねぇよ。鬱陶しい・・」


亜久津が猫に視線を向けると、猫は目を瞠って亜久津を見ていた。

何も間違ったことなど言ってはいないのだけれども、

猫にとってはきっと、亜久津の言葉が新鮮であったに違いない。

傍から見ていれば二人がどういう風に行動をしているか丸分かりであるのに、

どうして自分たちでは気がつかないのであろうか。


「とにかく、千石はお前のことが好きすぎてそんなことしたんだろ?

 お前もこんなとこで悩んでねぇでさっさと今言ったことを千石のとこに行って言ってこいよ。

 ・・まぁお前が行かなくてもあの男の方が先に来るんだろうがな」


亜久津がそう言葉にした途端、屋上へと繋がる階段を、

すごいスピードで上ってくる音が聞こえ始めた。


「ほら、来たじゃねーか」



バタン、と勢いよく屋上のドアが開く。


「室町くん!!」


珍しく必死な形相をした千石は。

更に珍しいことに息まで切らしていて。

きっと懸命に走ってきたのだろうことが容易に想像できてしまい。

亜久津の頭の中にはただ一言、『恋は盲目』という言葉が浮かんだのであった。

恋人たちの邪魔をすれば馬に蹴られてしまうので、

亜久津はただ猫とその恋人の動向を見守ることにした。

もちろん、他人のラブシーンなど、興味はないのだが。



亜久津はぼんやりと空を見上げ、そうしてとある方向へと視線を向けた。

もちろん。

その方向とは、青春学園中等部の方向なのである。